真珠湾攻撃と祖父

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この書き込みは、本当は「クリスタル・シティ収容所」についての記事に続けるつもりでした。これを機会に書こうと思ったことがふくれあがってしまい、ずるずるとずれ込んでしまいました。

共同通信社社友の鳥居英晴さんから、祖父、浅海庄一が真珠湾攻撃を知らせる打電を行った可能性があるとのメールを頂いたときは驚きました。父からはまったくそのようなことを聞いていなかったからです。

詳しくは僕が書いても言葉足らずになってしまいますので、詳細は鳥居さんが纏められた記事を読んで頂いたほうが良いと思います。

新聞通信調査会のサイトにて「「メディア展望」9月号(第596号)」が公開されていますので、興味がある方は是非、読んで頂ければと思います。結論は鳥居さんが書かれていたとおりです。以下のサイトから「メディア展望」9月号、鳥居英晴の記事である「真珠湾攻撃─同盟電はどう打電されたか(3)」を参照頂けるでしょうか。

http://www.chosakai.gr.jp/index2.html

ここに有るとおり、祖父には真珠湾攻撃を打電することは出来なかったと僕は今でも思っています。

真珠湾攻撃当日を回想する数々の文章を読みますと、ラジオでは不要な外出を控えるように呼びかけがされていたとあり、明らかに東洋人の顔立ちをしていた祖父が目立つ行動を取ったとは思えないのです。また、父も祖父が特別な行動、外出をしたとはまったく言っておりませんでした。

鳥居さんに教えて頂いた祖父が真珠湾攻撃を知らせるホノルル発の打電を行っていたのではという考察は、まだ父が存命中に発表されておりました。もっと僕がアンテナを張っていれば、本格的に勉強をしていれば、研究をしていれば、これらの考察に基づいてもっと父から話しを聞けましたのに。僕はそういう努力を怠っていました。悔やまれることです。

先の鳥居さんの記事にちょっと補足をさせてください。自分は鳥居さんとの会話で、「祖父は家の中で英語を話すことを許さなかったほどの右寄りの人物であったようです。」と言っております。このとおりに伝えておりますが、今から考えるとちょっと表現が強すぎたかもしれません。実際には「英語を使うことに良い顔をしなかった」というほうが妥当だったでしょう。実際、生活がすべて和風、日本風であったわけではありません。叔母の回想によれば感謝祭では幼い頃あからチキンや七面鳥のローストが料理されて饗されていたそうですし、我が家でもクリスマスにはチキンの丸焼き、ローストが定番の料理となっていました。クリスマス近くの休日には朝からFENのクリスマスソングが流れていました。夕食にオーブンからチキンが取り出されると、それを取り分けて家族の皿にのせるのは父の役割で、姉と僕はウィッシュボーンの取り合いを行い、願いごとを胸に唱えました。おそらく同じ光景が戦争前の祖父の家でも展開されていたでしょう。

父は他の日系の少年少女と同じように日本語学校に通っておりましたが、通常の授業に加えて日本語で授業を受けることが負担だったと回想しておりました。同じ日系人の方々の文章を読みますと日本語学校で同じ世代の子供達と遊べることを楽しみにしていた方がいらしたようですが、父には日本語の授業はちょっと苦痛であったようです。

また、右寄りの人物という表現ですが、あるいは父は「右翼」という表現をしていたかもしれません。ただ、これが正しい表現であったか。確実に言えることは祖父が徳富蘇峰の思想、著作に強い影響を受けていたということです。川添樫風著「移民百年の年輪」に『生前の浅海氏は、国民新聞布哇通信員として徳富蘇峰氏から特別の信頼を受けたし、又日本連合通信社の布哇特派員としても敏腕を振るった。」(P.367)とあります。

自分の手元には祖父の書いた記事は一部しかありませんが、1931年の日本訪問時に書かれた記事で徳富蘇峰に触れた箇所があります。満州事変に触れた後、「徳富蘇峰氏が大毎東日紙紙上で『國論統一の秋』と題する熱論を掲げ流石蘇峰思わしめたのもその頃であり」としています。この記事についてはまた別途ご紹介する機会を持ちたいと思います。

徳富蘇峰の思想、影響力については数多くの書、記事がありますが、折良く以下が参考になりました。

・おなじ「メディア展望」の10月号、「日記で読む昭和史(4)」の『徳富蘇峰─言論統制に走った「言論人」』

・現在発売されている「歴史読本」2012年1月号の特集中の記事『徳富蘇峰-世論を扇動した言論界の重鎮はなにを思ったか-』

本当であれば、真珠湾攻撃以降のサンドアイランド収容所生活まで言及するつもりでしたが、体力がつきました。次回に続きを書かせてください。

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