父のこと

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父が亡くなりました。

先日、コメント欄で『引き裂かれた家族』という本のこと話題にさせて頂きましたが、父、欣一はハワイ生まれの二世。第二次世界大戦という歴史の大波に翻弄された一人であり、先の書で取材された家族に含まれています。

いままで「布哇文庫」というサイトを運営するうえで父のことをとくに触れてこなかったのは、父自身があまり自らを語ることがなかたこと、そして、ハワイ生まれの二世を父に持つ僕自身が、そのわりにはハワイのこと、日系人のことを勉強していなかったこと、知識が不足していたことを恥じたためです。

本当に父はあまり自らのことを語りませんでした。自分の知識は母からのもの、父から断片的に語られること、親戚、知人から得られることからが主でした。なにしろ『引き裂かれた家族』を読んで初めて知ることもあったのです。

祖父、浅海庄一は布哇の邦字新聞「日布時事」の編集者でした。父によると祖父はまあ、言ってみれば右翼、日本万歳という人物で、帝国海軍の軍艦がハワイに寄航すると艦長と親しく面談したりしていたそうです。当時のマスコミ、宗教関連、教師などは一律FBIに目をつけられていたはずですが、祖父のそういった行動もブラックリストに載る理由だったかも、と父は言っていました。

ただ、そういった祖父もアメリカとの戦争は想像していなかったようです。真珠湾攻撃のその日の夜、FBIが自宅に、支度もそこここに連行されることになりました。本人も家族もそのショックは大変なものであったでしょう。『引き裂かれた家族』に詳しいので、僕が記憶を頼りに書くよりはそちらを参照して頂いたほうが正確かもしれません。

その後、家族もアメリカ本土の収容所に行き、1943年にようやく祖父と一緒になります。アメリカ本土の収容所は何箇所かあるのですが、祖父たちか入れられたのは反米、親日と目された人が集められたクリスタル・シティ収容所でした。(この収容所には日系人だけではなくドイツなどのヨーロッパ系の人々、また日系人といっても南米からも不当に収容された方々もいました)

この収容所での生活は、ミルクも飲みきれないほど支給されるなど当時の日本国内の食糧事情を考えれば恵まれたものであったようですが、それでも当時の祖父の手紙を読むとかなり精神的に苦痛なものであったことは確かなようです。

やがて交換船でアジアを経て日本に帰国することになります。親族の話によると日本船籍の船に乗り換えたとたん、食事がひどくなり始めて日本の事情を身をもって知ったそうです。このときのアジアでの滞在が家族の運命を大きく変えることになります。事情が重なり、祖父と三男だけ母親達と別れて帰国することになったのです。それ以前に、父はシンガポールで日本軍に現地召集されクアラルンプールの陸軍病院で衛生兵として入隊。なにしろ日本生まれではないのですからつらいことばかりであったろうと僕は想像したのですが、もちろん、つらい目にはあったが、年上の兵隊たちからは可愛がられもしたようです。

さて、これは書くのもつらいのですが、祖父と三男が乗った船は阿波丸でした。ご存知のとおり、本来は緑十字船であり、安全な航海を保障されていたのにもかかわらずアメリカの潜水艦に誤認され、魚雷攻撃を受け撃沈されてしまいます。このとき、祖父は50歳、もうすぐ僕もその歳になろうとしています。

祖父は短歌に親しみ、ハワイで短歌集を出版するほどでしたが、作品には海で永遠の眠りにつくことを予想したようなものがあり、胸突かれる思いをします。

一時期、祖母兄弟全員が阿波丸で運命を共にしたとハワイの一部で認識されていたようでしたが、祖母兄弟は海軍の病院船で帰国、しかし慣れない日本の生活で苦労をしたそうです。一方、父はマレーシアで英軍の通訳などの雑用を行い、1947年にインドの病院船で帰国。

その後の細かいことは述べませんが、父は父なりに歴史という大波を自らの意思でもって乗り切ってきたはずです。ただ、運命はずいぶんといたずらするもので、例えば「阿波丸事件」は政治決着という灰色でわかりにくい決着が行われ、アメリカの日系アメリカ人補償法(1988年)で行われた収容所体験に対する賠償についても、父がクアラルンプールで日本軍に従軍したことを理由に認められませんでした。これらに対し父にも思うところがあったはずですが、家族にそれを語ることはありませんでした。(父は結局1966年に家族といっしょにハワイに旅行するまで生まれ故郷には戻りませんでしたし、ハワイに移住する試みも行いませんでした。もし、試みても日本軍従軍の経験が邪魔をしたかもしれません。1966年の旅行の際にビザを取得する際もかなり面倒な思いをしたようです)

家族を持ってからはそういった経験がうそのように平凡で静かな、先にも書きましたが自身の気持ちを明らかにすることもない日々を過ごしました。ただ、一度、父の気持ちを意識する出来事がありました。平和祈念事業特別基金の特別慰労品に対して申し込みをしていたのです。記念品が届いたときにはそれを飽かず眺めていたことを、今も昨日のことのように覚えています。やはり自らの経験を公に認めてほしい、という気持ちがどこかにあったのでしょう。僕もポスターなどでこの基金のことは知っていたのですが、父と結びつけて考えることはしていませんでした。もし、気づいていたら、僕のほうからこの制度についてもっと父に勧めることが出来たのに、と悔やまれてなりません。

父が自らの体験を語ることをあまりしなかったのは、やはり心の機微を日本語では表現しにくかったからかもしれません。もちろん、日常生活にはまったく困りませんが、読むのも語るのも、本当は英語のほうが楽であったようです。数年前に父は数ページほどの回想録を英文、邦文両方で残していますが、英文のほうが分量が多いのです。そこから父の回想などをご紹介する機会がいつかあるでしょう。

悔やまれるのは体の調子を悪くする前にもう一度、父と一緒にハワイを訪れたかったということ。自分の都合が悪いことが多く、それが成りませんでした。最悪の場合、車椅子ででも、と思いましたが・・・。

ハワイが好きな理由は幾つも有ります。しかし、ハワイが好きで、気になる場所であるもっとも大きな理由は、父が生まれ育った土地であるから、です。

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