身近だったネイティブ・ハワイアンの世界(オアフ島)

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Henry Juddの話を続けます。今回も彼の回想録から。

以前にも書いたとおり、父親も兄弟もハワイ語に堪能であったことから、ハワイ語が出来るということは一家にとって特別なことではなかったのかもしれません。ハワイ語との出会いなどに特別な記述が見当たりませんでした。(難しい単語や興味のない箇所はすっとばして読んでいるので、見過ごしているかもしれませんが)

父親の仕事や家族の関係もあるのでしょう。彼はオアフ島は当然として、その他の島、各地に若くして親しんでいました。イザベラ・バードの時ほどでは無いにしても、汽船での渡航、島内は馬か馬車、徒歩、あるいは場所によっては汽車での旅ですから今と比べればかなりハードであったはず。

その各島についての記述はあとにして、今回はオアフ島での彼の体験を追ってみましょう。

まず、少年時代のヌアヌ・ストリートでのこと。彼の住居の近くに古代ハワイアンのカヌーが埋まっているという伝説の地があったのだとか。ハワイ人達はその遺跡によく立ち寄り、これはペレが持っていたもので、雄鶏のときの声にせかされたペレが乗り捨てていったものと。

そういったハワイ人たちの集合場所が近所にあって、土曜日にはひがな一日そういった場所で過ごしたハワイ人たちが夕刻には馬に揺られて帰っていく光景がお馴染みのものであったと書いています。

もちろん、クアロアのことを忘れてはいけません。以前ふれたSophie J.Cookeの回想にもあったとおり、クアロア・ランチで凄す時期というは一家にとって大切な時間でした。Henry Juddもここで乗馬に親しみ、また泳ぎを楽しんだようです。ここでの体験でかなり体を鍛えられたことでしょう。(もともとクアロア自体が聖なる地でしたものね)

この時にはすでに牧場としての経営になっていましたからカウボーイ等として近辺のハワイ人が雇われていました。カウボーイや漁師として数名の名前を挙げているのですが、詳しいことを調べることが出来ませんでした。そのほか、牛を連れてくる近隣のハワイ人たち。この時代、クアロアはいあわば閉じられた世界(交通機関が今ほど発達していなかったので)、水泳や自然との接し方などのほかに上記のようなクアロア訪問者から学ぶことは多かったようです。

また、毎年の行事としてWaianu,Kaliuwaaへ足を延ばすことを年中行事にしていたようです。(正直、僕にとっては両方ともえらい難所です。地図を観ただけでひやひやします)。

とくに後者Kaliuwaa行きは一大行事で、「ジャッド一家が行くぞ」と先触れが出るほどだったとか。古代ハワイのしきたりを意識しての旅行で、あるときはハワイ人の古老を先頭にハワイの旗を運び、女神ペレへの伝統にしたがいOhia aiの葉を道々の大きな岩に糸で結び付け、小さな石で囲っていくということをしていたとか。(ここの訳、いい加減です)

Ohia aiの実(マウンテン・アップル)を食べることはタブーとされてたそうですが、一家が食べてもなんの不幸にも見舞われなかったのは何故か、父親がある古老に尋ねたところ、そのタブーは白人には無効なのだ、と答えらたらしいです。滝のしたのプールで水泳を楽しんだ後はおいしいルアウが待っていたと、彼は回想しています。

いかん、他の島にも触れるつもりが、ここで体力が無くなりました。続きはまた後ほど。

上記のリンク先でも触れられていますが、後者の滝へのハイキングコースは大きな事故の後、クローズとなっているようです。行かれる場合は自己責任で、と。

下に引用させていただく動画には上記に触れたことと同じと思われる葉を岩に置くシーンがあります。

追記します。Sophieさんも同じ小旅行に触れています。新鮮な葉を岩に置き小さな石で押さえることを習慣で行っていたと有ります。彼女はこの谷をおさめていた神Kamapuaaへの捧げものだとしています。彼女自身は岩を落とさないようにとお願いするためのおまじないと考えていたそうですが、実際に起きた事故を考えるとなるほどと思ってしまいますね。

また、先に人を行かせたのは岩と葉でオーブンを用意するためで、なるほど、本当にルアウを楽しんでいたのですね。何しろ新鮮な肉などはクアロア・ランチから持って行けば良いのですもの。

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