上田様よりアルウィン家とハワイのまた興味深い情報を教えて頂きました。
青山霊園のアルウィン家の墓所の隣に武智家のお墓が有るそうです。実はハワイ公使であったアルウィンさんの奥様は武智家の出身。つまり、今、青山にアルウィン家のお墓が有るのも武智家との御縁とのこと。
そして、武智家の方でもう一方、アルウィンさんとハワイに縁ある方がいらっしゃるそうです。初期三井物産の台湾製糖の創立者(相談役にロベルト・ウオルカー・アルウィンの名前が有ります)のひとり、常務取締役であり後に社長となる武智直道さんがハワイに留学していたことが有ると!。明治時代にですよ!。
インターネットで武智直道さんを調べると日本語の情報も有るのですが、いや、むしろ台湾発の情報が上回っているかもしれません。なにしろ、「台湾近代糖行先駆者-武智直道-」という一冊の本が出ているくらいですから・・。
上田様に武智直道さんが慶応義塾入学直後、ハワイのオアフ・カレッジに約五年間留学、明治22年頃帰国したと教えて頂きました。オアフ・カレッジといえばあの名門、プナホウ・スクールの前身ではありませんか!。
上田様から武智直道さんの旧姓が林であり、武智家に養子に入ったとの情報を頂きました。ハワイ公使アルウィンさんの妻、いきさんも同じく林家から養女として武智家に入っています。
いきは十歳の時、元土佐藩士でその頃献残家といわれた商売、海産問屋を江戸で手広く営んでいた武智聡助夫妻に懇望され養女となった。(アーウィン・ユキコ著「フランクリンの果実」p.11
インターネットで「慶応義塾出身名流列伝」の武智直道さんの項を参照するとやはり
氏元性は林、日本橋葭町の舊家に生る
とあります。
また武智家の養子になったという12歳はいきさんとアルウィンさんの結婚が公的に認められた明治15年にあたります。近しい血筋であったと思います。(最初の書き込みで姉弟かも、などと書き込んでしまいましたが、違いました。以下のリンク先の31頁を参照下さい。一回、読んだだけでは頭に入らないほど複雑な事情があったのですね。国際結婚であったということと、いきさんが武智家にとって大切な跡取りであったことが事を複雑にしていたようです。いずれにしてもいきさん、直道さんが武智家において重要な位置にあったことは確かです。)
創業期三井物産の諸投資 麻島昭一著 専修大学社会科学研究所月報から
おなじく「慶応義塾出身名流列伝」に「オアフコレツヂ」に学びとあります。先に書きましたとおり「Oahu College」は名門プナホウ・スクールの前身。明治時代に留学できたのはアルウィン氏の後押しがあったためではなかったかと。
手元に「PUNAHOU-THE HISTORY AND PROMISE OF A SCHOOL OF THE ISLANDS」という書があります。
同書p.11から
「当校での人種混合はゆっくりとしたペースで進み」、中国系の生徒が入学したのが1867年が初めて。中国系が増え始めたのが1890年以降。
日本人のフルタイムの学生が最初に入学したのが1885年。日本領事の息子Shinichi AndoがShinjuro Aoki、Tadamichi Takechi(恐らく同様に領事館勤務者の息子たち)を伴って入学した。彼ら三人は1891年卒業予定のクラスに入学したが、卒業まで島にとどまらなかった。日本人が初の卒業生となる名誉は20世紀の最初の四半世紀まで待たなければならなかった。(同書p.44 太字にしたのは浅海。カッコ内も原書の記述に従いました。)
このp.45にはパール・リバー(後のパール・ハーバー)で寛ぐ生徒たちの写真(1888年撮影)が掲載されており、一名、明らかに東洋人と見て取れる生徒がナイフに刺さった果物に目を落としています。面影が何となく武智直道さんに似ているのですが、まあ、思い込みでしょうね。それはともかく、プナホウ・スクール最初の日本人生徒であったことは間違いが無いと思います。
Oahu College:LIST OF TRUSTEES,PRESIDENTS,INSTRUCTORS,MATRONS,LIBRARIANS,SUPERINTENDENTS OF GROUNDS,AND STUDENTS (The Internet Archiveから)
この時期、「Oahu College」に学べたことは大きな経験になったはず。
下記リンク先では「東京ハワイ公使館で移民の事務をしていた」武智直道さんを「ハワイ公使だったアルウィンが見いだし台湾製糖創立のとき発起人として推挙した」とありますが、実際は目をかけていた武智直道さんを東京ハワイ公使館に努めさせたのもアルウィンであったことは前掲「慶応義塾出身名流列伝」にあるとおりです。
「植民地企業経営史論」久保文克著より 台湾製糖の発起人の一人として名前を連ねた陳中和氏
新聞記事を検索してTadamichi Takechiさんに触れたものを探したのですが、ひとつだけでした。1892年に「MR.TADAMICHI TAKECHI has been appointed Hawaiian Vice-Consul at Yokohama and Tokio in the Empire of Japan.」と報じている数行の記事です。
The Daily bulletin., June 27, 1892
いずれにしても明治時代の日本、ハワイ、そして台湾に通じる近代史の一項を占めるエピソードの一つでしょう。
また、もし、少年期の教育をハワイで受けたのだとしたら、ベラさんのアルウィン学園につながった可能性も有ります。そう考えると感慨深いものがありますね。
「よし町よしや 1971」「蜷川虎三の生涯 1982」より武智直道さんと蜷川虎三さんの関係わかりましたので報告です。武智さんの姉の夫の甥が蜷川さんでした。もうひとつの武智直道さんとフランキー堺さんの関係は解明できないままで、情報をご存じの方に提供をお願いしたいです。加えて別の著名人との関係性の有無を確認するために、武智さんの養父である武智惣助さんの兄弟姉妹や尊属を詳しく知りたいです。ちなみに有院家は、三島由紀夫さんの姻戚の日高家および音楽家を輩出した平尾家とおそらく閨閥を成すと思われます。間違っていたら、ごめんなさい。
武智直道さんが、フランキー堺さん及び蜷川虎三さんと姻戚らしいとの情報に接しているのですが詳細わかりません。サイトで閨閥図を公開していただきたいです。
もしくは下記にお手紙いただけると大変ありまたいです。
福岡市早良区次郎丸4丁目13番37(きたおまこと)
素敵なエピソードありがとうございます。
大きなチャンスを与えられたのですからお爺さんのお気持ちもわかる気がします。でもアーウィンさんも観る目あったということですよね。
当時の江戸時代のあるクラスの方にはアメリカもひょっとするとヨーロッパも垢抜けないという印象与えたかもしれませんね。興味深いことです。
武智直道は私の曾祖父ですが、少年の頃慶應義塾通学中、ロバートアーウィンシニアに「賢そうだ。」と見初められ、「アメリカ留学」を餌に養子となった、と親戚間では伝え聞いております。
アメリカに渡る気満々のところ太平洋の途中で下ろされたのは大層不本意だったにや伝わっております。だってアーウィン氏の実子は皆渡米していたのですから。
さて、直道が養子となる際妻を伴っておりました。いき夫人の姪きく、私の曾祖母です。彼女も留学させて貰いましたが、エピソードとしてはお互いの顔を確かめながら用を足す洋式のトイレに閉口したことしか私は知りません。バリバリのお江戸趣味の人だったので、日本式でないスタイルは受け入れ難かったのでしょう。
私はギリギリ曾祖父と会っております。2歳の頃オムツを着けている年で仕舞の真似事をして見せ、認知の入った曾祖父は泣きそうに喜んだそうです。そしてその状態になってからは、アメリカ迄行けなかったことを口惜しんでいたのに、ベッドでうつらうつらして時折目を覚ますと「ミィコと今ハワイに行って来た。」と当時飼っていた猫とトリップしていたそうです。