Sincerely,Sophie

Pocket

終戦記念日関係の番組を観ていて、そういえば日米開戦時の在ホノルル日本領事館は今まで話題にしてきたジャッド家の跡地に有ることに触れたことなかったかも、と気が付きました。そう、開戦前から今ある在ホノルル日本総領事館はチーフ・ジャステスのA.F.Judd邸跡にあるのですね。

正確に言えばもともと初代の日本国総領事館がジャッド邸の隣に設けられていたのですが、1913年にその敷地を購入し、拡張した形で今の在ホノルル日本領事館があるわけです。

→「在ホノルル日本国総領事館」サイト

上記のサイトから引用させて頂きますが、以下のような記述があります。

1913(大正2)年、日本国総領事館はジャッド夫人よりヌウアヌの隣接地を買い受けた。総領事館のヌウアヌ所有地総面積は13,400平方メートルとなった。この広くなったヌウアヌ/クアキニ通りの角地に公邸と公館の2つの建物が新築され、その後40年以上使用された。

上記ジャッド夫人が、つまり今回触れているA.F.Judd一家の母親のことだと思われます。一家の住んでいた時代には「ローゼンハイム」と呼ばれる邸宅が建っていました。一家の七番目の娘、次女であるSophie Boyd Juddの回想録から総領事館に関する記述をひろってみましょう。

日本総領事館は我が家の隣で、天皇誕生日(浅海注:当時は天長節ですね)には毎回招かれて日本国国歌の斉唱に参加したり、お酒や刺身をご馳走になった。私は今でもあの国歌を歌うことが出来る。(「Sincerely,Sophie」p13から)

総領事サイトの「当館の歴史」と以下の図を見比べてください。この図はJohn Scott Boyd Pratt Jr著「THE HAWAII,I REMENBER」から引用させていただくものです。1900-1902年当時のヌウアヌ周辺を思い出すまま図示したもので、なかなか味があるでしょ。下の方、クアキニ通りと接する角地に「Japan Consul」とあり、その下に「A.F.Judd “ROSENHEIM”」と読み取れます。つまりこの地所がのちに総領事館に吸収されることになるのです。

nuuanu 1900-1902

総領事館に統合されるまえの邸宅の写真が「Sincerely,Sophie」に掲載されていますので、ついでにご紹介しましょう。

nuuanu kualoa

左上がその邸宅ですが、住所が今の日本総領事館のそれと同じであることが確認できます。

judd family

カバー見返し部分にジャッド一家の写真が使用されています。どこで撮影されたかは書かれていませんが、乗馬姿なので、おそらくはクアロア・ランチかと思われます。

a.f.judd family

父親の仕事柄、王女リリウオカラニとの交流があってもおかしくありません。

さて、その「Sincerely,Sophie」ですが、あまり状態が良くありません。1964年の刊行ですからカバーがあるだけまだ良いとは言えるのですが。

Sincerely_Sophie

本書は著者の友人に贈呈されたものです。

title

著者と贈り先の友人の写真が張り込まれています。また、本文の一部におそらく著者の手によると思われる訂正や追記が数か所行われています。校訂に用いた本をそのまま送るとは考えにくいので友人には正確な情報を伝えたいという気持ちから手を入れたのかもしれません。手書きなので読み解きにくいのですが、いつか読解したいと思います。

上記の写真に写っている絵は恐らく著者自身の手によるものと推測。

著者名が「Sophie Judd Cooke」になっているのは、彼女はあのCooke家の一員であるGeorge P.Cookeと結婚したからであり、彼はMolokai Ranch のゼネラル・マネージャーの任に有りました。まだモロカイ島には水などの生活、産業基盤がそろっていない時代でしたから、艱難辛苦があったことが伺えます。本書もそうですが、ハワイの牧場、畜産産業、カウボーイ、モロカイの歴史に興味ある方には本書、以下の書、「MOOLEO O MOLOKAI -a Ranch Story of Molokai-」をお勧めします。そう、ご主人のGeorge P.Cookeの著作で1949年の刊行です。

Moolelo_o_molokai

molokai lunch

Sophies

本書に収録されているCentral Molokai and Maui from Above Mahana とキャプションの付された絵。描いたのはSophie Judd Cooke、つまり妻の絵を掲載しているんですね。正式に絵を学んでいるので上手だと思います。彼女は若いときに著名な肖像画家のモデルになっているのですよ。

Sophie Judd Cooke

上記の画像を「Reviving old Hawaii」という新聞記事で見ることが出来ますが、いや実際、きれいな方ですよね。

モロカイ・ランチがモロカイ島に与えた影響の大きさなど語るべきことは多いのですが、きりがありません。断片的な以下のことを挙げましょう。

・「フレンドリー・アイランド」というモロカイ島の愛称

この愛称の名付け親がSophie Judd Cooke。これは前にも触れたことがありましたね。

St. Sophia Catholic church

残念ながら2010年の火事で大きなダメージを受けてしまいましたが、「St. Sophia」は聖人の名前からきているわけではなく、Sophie Judd Cookeの名前から取られた名称とのこと。

・Kauluwai

夫妻はモロカイ島のKauluwai近辺に居を構えました。カウボーイを含め日系人が多く働いていたようです。

Kauluwai

この住まいの山側に娘Dora夫妻のための住居が用意されたようですが、この家は今、Kauluwai Mauka と名づけられ、借りることが出来るようです。どなたか日本人でも借りられた経験をお持ちの方がいらっしゃるかもしれません。

・教育者としての夫妻

そうそう、本稿のメインを忘れるところでした。ずっとこのジャッド一家の三代目を日本語学校、外国語学校の問題にからめて語ってきたのですが、学校問題について語るべき資格があるのはAlbert Francis Judd, JrではなくこのCOOKE夫妻だったかもしれません。といいますのも彼らは学校を設立しているからです。今も続くHanahau`oli School がそれです。今まで僕はいろいろ理屈をこねてきましたが、この学校は実際的かつ文化、芸術に重きを置いた非常に素敵な学校に思います。

「Memories of Hanahauoli」という本を入手し、日本語教育に関する記述を探してみました。2ページ目にすでにその記述がありました。大意は以下のとおりです。

フランス語のほか、日本語教育もOkamura牧師により行われていたが、戦時下の外国語学校規制法によって中断し、フランス語教育はのちに再開なるものも、以降日本語教育は1942年以降再開されることはなかった。

間違えてはならないのはここでいう外国語学校規制法は第二次世界大戦下の1943年に制定されたもので、今まで話題にしてきたジャッド案をきっかけとした規制法とは別のものであるということですね。日本語学校や日本語教育はこの規制法案をまたずに真珠湾攻撃をもって中断となっていたのです。

本書では学校職員の名簿も掲載があるのですが、日本語教師として二名の名前が挙がっています。

Reverend Okamura (オカムラ牧師ですね。残念ながらフルネームでの記載がありません)
Mrs.Chyo Takahashi (Chiyo Takahashiが正しいのかもしれません)

そのほか、幼稚園の庭ではレタスやラディシュが栽培されており、その世話をしていたのが「ハナ」と呼ばれていた「すばらしい日本人の用務員」。誰からも愛された彼の本名は「ミスター・ハナタニ」。ただ、子供たちは親しみをこめて「ハナ」としか呼ばなかったとのこと。1942年三月。がんに倒れるまで学園の仕事を勤め上げたが、彼の最後の仕事の一つが真珠湾攻撃後の校内に防空壕を掘ることであったそうです・・・。

memoriies of hanahauoli

本書「Memories of Hanahauoli」の表紙にデザインされているのはHanahau’oli bellと呼ばれているもので、最初に使われていたベルはMolokai Ranchで夫妻の子供たちに使われていたものだそうです。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です