Sincerely,Sophie (Part2)

Pocket

これは前回の書き込み時に触れるはずだったのですが、元ネタが見つからず。本棚を整理していないので、こうなります。

以前にも書いた内容で、繰り返しばかりになりますが。ホノルル・マガジンの前身「PARADAISE OF THE PACIFIC」1961 HOLIDAY ANNUAL号に「GEORGE COOKE’S MOLOKAI」という記事が掲載されています。主にSophieが夫について語る体裁になっているのですが、かいつまんで紹介を。(「Sincerely,Sophie」刊行前の記事で、かつGEORGE COOKEが亡くなった直後でしょうか)

paradaiseofthepacific1961

・モロカイ島の愛称「フレンドリー・アイランド」は夫妻が付けたことになっているが、最初に発案したのは夫の親戚筋にあたるHarold Rice議員であったこと。(これは「Sincerely,Sophie」にも記載があります。)

・彼の名前を付けた希少植物「Kokia Ulu Ulu Cookei」が有り、夫妻は自分たちの地所から種を保存、配布してこの種を守る努力をしていること。

・政治の世界に身を投じ、プリンス・クヒオとともにハワイアンにその土地を取り戻すため、「Hawaiian Homes Commission Act」を制定させた。

TheFirstHawaiianHomeCommission

上記の写真はファーリントン知事の評伝「Wallace Rider Farrington」(Thornton Sherburne Hardy著 1935刊)から引用させてもらいました。(中央がプリンス・クヒオでその右隣りがGEORGE COOKE、右端がファーリントン知事ですね)

img099

Cooke夫妻の話題から大きく外れてしまいますが、いままで日本語学校規制を軸に語ってきたので、また触れさせてください。ファーリントン知事はこの規制法の問題がハワイを揺るがせた時代の当事者でありましたので、評伝もこの問題や関連する背景に多くのページを割いています。感心するのは1935年の刊行に関わらず、かなり冷静な筆致で触れられていることで、もし、この問題に興味ある方は手に取られることをお勧めします。この規制案については様々な団体がそれぞれの立場で発言しているので、根っこの部分が見えにくくなっていますが、要するに移民の増大で文化が混在されてしまうことへの恐れ、不安が根底にあったと思います。その中で最大の人口流入量だったのが日本人移民だったのです。

この時代、上記にあるようなハワイの権利回復運動や今後触れることになるハワイ語研究、教育の基盤拡充も実は多文化流入に対抗する流れの一つだったかも知れません。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です