Lawrence M. Judd & Hawaii: an Autobiography

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前準州知事に持っていた浅海の印象は、当初のものとはだいぶ異なってきています。限られた情報をもとに判断していました。

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彼の自伝「Lawrence M. Judd & Hawaii: an Autobiography」はかなり早いうちに入手していたものの、全編を読み通す英語力がなく、関心のある部分を拾い読みしていた状態でした。マイナスの印象からスタートしていましたから本書からも素直に情報を読み取ることが出来ていません。(本来であったら以前書いていた彼に関す記述、もっと冷静に書き直すべきですが・・・)

書影にあるとおり、自伝としていても、実際には語りおろしたもので、文章にまとめたのはHugh W. Lytle、前ホノルル・アドバライザー紙の編集者。出版社は前に触れましたがCharles E. Tuttle Companyで、日本で印刷されています。初版は1971年。1960年代にマッシー事件に関する著作が立て続けに出版されましたが、それより間を空けての刊行となっています。

著者は他の兄弟と同じく地元の学校(Punahou School)を卒業後、本土の大学に進学しますが、兄達とは異なりUniversity of Pennsylvaniaに。Carnegie Steel Company等で実務経験を積みます。

政界への道については別の機会に譲りますが、僕が本書でまっさきに探したのが、日本語学校に関する記述でした。たびたび触れているとおり、彼の兄が外国語学校取締法のきっかけを作っていましたから、弟である彼がどのような意見を持っていたのか、興味があったのです。

記述を進める前に、これも以前触れたことが有るのですが、山中速人さんの論考にリンクを張らせて下さい。相変わらず許可を得ていませんが、ご一読いただくと有り難いです。

→ 『多言語状況における異文化紛争に関する歴史的考察 -ハワイにおける日本語学校「試訴事件」(1923年)をめぐる分析

ここで「領政府による日本語学校に対する規制を背後から支えた白人団体」として三つの団体が挙げられています。その三つの団体とは、ホノルル商工会議所(Honolulu Chamber of
Commerce)、「ADクラブ・ホノルル支部(THE HONOLULU AD CLUB)」「アメリカ革命の娘たち(Daughters of American Revolution)」。

以前書きましたとおり、彼ら兄弟の母親がDaughters of American Revolutionに関係していましたし、兄がきっかけを作ったこの外国語学校取締法にどのような意見を持っているか、が気になりました。探してみますと、一ページに満たない量ではありましたが記述を見つけました。(pp.127-128)

当時、意外に思ったのが、この法に対して突き放しているというか冷淡な記述になっていることでした。内容を以下に要約します。(例によって、正確ではないかもしれません。興味ある方は実際の書を手に入れてご一読下さい。オンライン古書店などで容易に購入できますので)

  • 外国語学校取締法のターゲットが主として日本語学校であったこと
  • 日本人の親たちが日本語学校に子供達を通わせることで、出身国である日本に忠信的な子供達を育てることになるのでは、という疑念を市民たちの一部に生んでいた
  • その疑念は(著者が思うこととしては)、先に終わったばかりの第一次世界大戦下のアメリカのドイツ人社会に関する報道、報告に起因するものであった
  • 本法案のすべての公聴会に著者が全院委員会の議長として参加することになった。
  • 法案はマッカーシー準州知事のサインをもって成立。多くの外国語学校が規制を受けることとなった。が、のちに連邦裁判所に覆され「この法は消えうせることとなった」
  • 戦時下の”hyphenation”(辞書でひくと「(改行などに伴い)ハイフンでつなぐこと」と出てきますが、おそらく”Japanese-American”というように外国系の市民に対する、という意味でしょう)ヒステリアは終わってみると一気に沈静化、外国語学校を反逆的と恐れるものはハワイではいなくなった

当時の外国語学校規制法が第一次世界大戦のドイツ人社会の教育に影響を受けていることは、いくつかの著作や論考で指摘されていることで、ずいぶんと冷静に、というか批判的にこのときの流れを記述しているのですが、のちのマッシー事件への対応、そしてスターリング提督への態度からも彼の姿勢は一貫していることが判ってきます。

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