「戦没した船と海員の資料館」(阿波丸のこと)

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先週、神戸に出張しておりました。うまく休日を絡めることが出来る場合は神戸周辺を歩き回るのですが、今回は都合があって仕事のみ。

出張先のお客様は神戸元町にあります。宿泊先で地図を眺めていますと、そのお客様から歩いて数分のところに「戦没した船と海員の資料館」というものが有ることに気がつきました。

今まであまり触れておりませんでしたが、祖父と父の幼い弟(自分にとっては叔父にあたります)は日本への帰国にあたって阿波丸に乗船、良く知られていますとおり、遭遇するはずのない潜水艦攻撃によって海に眠っております。この阿波丸については本を二冊ほど(浅田次郎さんの「シェエラザード」も含めると三冊になりますか)読んでおりますが、深く追求してきませんでした。父もあまりこの阿波丸について語ることなく、例えば遺族会などの組織にも積極的に関わってきませんでした。(たんに人つきあいが苦手であったのか、ほかに考えがあってのことなのかは今となっては知るすべがありません)

以前書いたとおり、その昔、「浅海氏」という海賊が居たことを知ったとき、祖父の運命と重ね合わせて皮肉なものを感じたものでした。その浅海という海賊とのつながりについては結局うやむやのままですが。ただ、祖父が常に海を意識し、海を読んだ歌を多く残しているのは確かです。そして船、海軍に特別な思い入れがあったのも確かです。(不思議なことですが、何故か海難を予感したような歌まで残しています。しかし、幼い息子まで海の底に沈める運命になるとは・・・。その時の祖父の無念さは推し量ることさえ恐ろしい。)

父も同様に船、海事関係が好きでした。戦後初めてのハワイ「帰国」にあたっても、一つには経済的な理由からでしょうが、往路に船を選んだのは父のその思いからだったでしょう。(ただ、祖父が阿波丸で亡くなったのに、船を好きでいられるのを不思議に思ったことがあります。これは訊くのもためらわれる質問で、結局、ぶつける機会はありませんでした)

ひょっとして阿波丸の展示があるかもしれないというかなり安直な気持ちで、お昼休みに「戦没した船と海員の資料館」を訪れてみました。

戦没した船と海員の資料館

確かに阿波丸の展示が!。また、図書室・資料室にも阿波丸に関する本が4冊ほど。二冊は自分がまったく知らないものでした。そのうちの一冊には乗船客リストの掲載があり、「軍属」という分別のものに祖父の名前が掲載されていました。

事務室につめていらした研究員の方に「阿波丸に関する資料がありましたら見せて頂けないか」と思い切って声を掛けさせて頂きました。対応下さったのが、大井田孝さん。いや、運命の導きか、この方が凄い方なんです。もちろん、戦争中に犠牲になった船全般の研究にも力を注がれているのですが、阿波丸に関しても足かけ3年、約4年近くも研究調査に時間を割かれていた方なんです。

アメリカ国立公文書館にも足を運ばれ、インデックスカードからこれはという資料を請求したところ、台車に4台分。ボックス数にして数十個分の資料がどーんと運ばれてきたのだそうです。限られた時間のなか、資料に目を通し、取れるだけの複写を取ってこられたとか。浅海にも潜水艦クィーンフィッシュの艦長の航海記録の複写を見せて頂きました。大井田さんのお話を聞きながら目を通すと確かになにやら不審な点が多い。なにしろ、当日の天候状況は濃霧であったと一行だけぽつっと記載あるだけ。霧が濃ければ濃いほど戦術用潜望鏡(正しい呼び方ではないかもしれません)で相手を十分に確認するはずで、ランプで照らされた緑十字の印を(いくら霧が深かったとはいえ)見落とすかどうか。

それ以外にもいろいろと興味深いお話を伺うことが出来ました。なんてことだ。もっと余裕ある時間に訪れるべきだった・・・。

今まで本に書かれていたこと(沈没位置、航跡、犠牲者数)を鵜呑みにしていましたが、いやいや・・・。ここで大井田さんに伺ったことをすべて記述することは出来ません。記憶違いがあってはご迷惑をおかけしますので・・・。以下に研究のほんの一部が紹介されたページをリンクさせてください。

・「戦没商船をHPで紹介 阿波丸の犠牲者数も

たしか、奈良の璉珹寺を中心に新たに犠牲者名簿の整備が勧められており、ほぼ完了しつつあるとのお話でした。この璉珹寺さんはお花と袴姿の阿弥陀如来さんで有名ですが、一角に阿波丸遭難慰霊碑が有るとのこと。増上寺の慰霊碑は何度も訪ねたことがあるのですが・・・。奈良の璉珹寺、是非、お邪魔しなければなりません。

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