KOJI ARIYOSHI

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重い本の代わりに、と今回はDVDを買ったのだけど、まだ二枚しか見終わっていません。その二枚はPBS Hawaii のBiography Hawai’iシリーズ。

・Harriet Bouslog
・Koji Ariyoshi

一枚目のHarriet Bouslogさんについては以前書いたので、詳しくは触れませんが、いや、本当に凄い人です。二枚目のKoji Ariyoshiさんは彼女が関わったHawaii Sevenのなかの一人であり、マッカーシズムと労働問題を背景にしていることを共通としているため合わせて観ると理解が早いと思いました。

Koji Ariyoshiはコナで育ちます。小さなコーヒー農園で働く山口県出身の父は激しい労働にあけくれますが、病に倒れます。父に代わって借金を背負い一家を養うこととなったKojiは様々な仕事を経験。労働問題に関心を持った彼はハワイ大学をへてジョージア大学でジャーナリズムを専攻します。サンフランシスコに旅行している際に真珠湾攻撃が発生。マンザナール収容所に送られます。収容所内で結婚した彼は陸軍情報局の仕事をすることとなり、やがて抗日体制の強化のため、中国にわたることなります。中国でであった運動に彼は大きな影響を受け、それが後の彼の人生を大きくゆるがせることとなります。

ハワイに帰った彼は「ホノルル・レコード」という新聞を発刊。労働問題ばかりではなく戦後ハワイの様々な社会問題を取り上げます。アドバタイザー紙、ブリティン紙という二大紙の誤りを指摘したりしていたので、かなり眼の敵にされたそうです。

そこに起きたのが「ハワイ・セブン」事件。政府転覆を図ったという容疑で逮捕されてしまうのです。時は50年代。共産主義への恐怖、マッカーシズムが吹き荒れた時代でした。

釈放はなりましたが、財政的にいきづまった「ホノルル・レコード」紙は廃刊。小さな花屋を経営して生活を切り盛りするようになります。(「The Red Florist」というあだ名で呼ばれたそうで)。

やがて米中関係も雪解け。彼を取り巻く環境も変わっていきます。1970年代、ブリティン紙の特別レポーターとして中国を訪問、今は要人となったかっての友人たちと再会。その後もハワイ-中国、アメリカ-中国の親善に大きな役割を果たしました。

ハワイ大学で授業を持つようにもなり、ハワイ文化復興にも影響を与えたようです。1976年に癌で亡くなりましたが、最後まで生活を支えたのは花屋からの収入。遅くまで働いていたとのこと。

WikipediaのKOJI ARIYOSHIの項

Biography Hawai`i: Koji Ariyoshi Photo Site

Koji Ariyoshi: Portrait of an era 

Fear of Communist infiltrators engulfed postwar Hawaii

「ホノルル・レコード」という新聞については労働問題をメインテーマにしたロナルド・タカギ著の「パウ・ハナ―ハワイ移民の社会史」にこの新聞からの引用が多いようです。素晴らしいことに、この新聞をPDFで読めてしまうんです。ハワイ大学がインターネットで公開していました。

Honolulu Record(Center for Labor Education and ResearchのeLibraryから)

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