前回、タンタラスの家について触れたので、その流れからまたジャッド家ゆかりの建築物に触れさせて下さい。こうやって寄り道していると、いつまでたっても終わらないのですが・・。
ジャッド前知事の反論や講演の記事を読んでいくと人種別の人口が数字として挙げられています。この数字がどのようにまとめられているのか、また、引用した数字が正しいのか気になっていました。
そこで青柳まちこさんの「国政調査から考える人種・民族・国籍-オバマはなぜ『黒人』大統領と呼ばれるのか」を読んでみました。ただ、ハワイに関する記述は1959年以降が中心になるので今回の目的には合いませんでしたが、それでも興味深い読書体験でした。
青柳まちこさんは「もっと知りたいニュージーランド」等の著書、オセアニア研究、エスニシティ研究で知られる方ですが、「私のオセアニア学ことはじめ」という回想録、エッセイを「日本オセアニア学会 NEWSLETTER No.100」に発表されています。詳細は以下のリンク先を参照ください。
「私のオセアニア学ことはじめ その1」日本オセアニア学会 NEWSLETTER No.100から
1961年の初めてのハワイ行きについての記述に着目下さい。
その頃私はJudd博士の家にベビーシッターと言う名目で居候していた。
とありますでしょ?。
この家はホノルル市街を一望に見下ろすタンテラスの山の上にあり、眼下に戦死者を祀るパンチボールの墓地、右手に空港、さらにその先に真珠湾がきらきら輝いていた。
ひょっとしたらこの家、以前触れたJames R. Juddの家ではないかなと思っています。1961年といえばJames R. Judd Jrさんの世代に相当するのですが、ただ、彼がお医者さんであったかは確認が取れていませんし記述にある年齢に合致しないように思います。Gerrit Juddの子孫には他にもお医者がいますしね。
ただ、上記の描写にぴったりなんですよ。James R. Juddの家はHistoric Hawaii Foundation のサイトに登録されていて、プロフィールや位置が詳しく判るのです。以下のリンク先を参照ください。
2490 Makiki Heights Drive/ Dr. James R. & Louise Judd Residence
こちらも魅力的なお宅ですよね。リンク先に有る地図をみると青柳まちこさんの記述に近いように思えるのです。Registration Formにはもっと詳しい記述があります。
Dr. and Mrs. James R. Judd Residence
全部引用したいところですが・・・・。詳細を読み進めると「James R. Judd Jr. replaced the servants’ quarters to the premises in 1950」とあって、またずっと読み進めると間取り図があります。もし、青柳まちこさんがこの家にいらしたとすればこの部屋だったろうか…などと考えたり。いずれにしてもこの家も魅力的な建築物です。ため息が出ますね。(なんだか不動産屋になった気持ち)
ジャッド前知事の回想録によれば無線で有名なマルコーニがハワイを訪れた際にこの「hillside」のホームに立ち寄ったようです。
午後をリラックスして過ごし、輝く海と波や雲が織りなす影を楽しんだ。
「この楽園を離れたくないね」とマルコーニ。
「もう少しいらっしゃいよ。夕刻までいて海の色が変わるさまを楽しんで下さい」
(Lowrence M.Judd & Hawaii p.164)
実際、日の入りまで出発を遅らせたと有ります。知事時代、マッシー事件の嵐が吹き荒れる前のことでしょう。
まさかとは思うのですが、こんな広告を見つけてしまいました・・・。ううう。