布哇に於ける排日事情 / 某外務当局者談

Pocket

また同じようなことを書くことをお許しください。話題がハワイの日本語学校問題に戻ります。

相変わらず神戸大学付属図書館のディジタルアーカイブをさまよっているのですが、「日布時事」のキーワードで興味深い記事を見つけました。故人の奥村多喜衛さんや関係者にとっては迷惑なお話だと思いますが、また触れさせて下さい。

以前、日本語学校問題のきっかけとなったジャッド案は実は奥村多喜衛さんと御子息が起草したものだ、という報道があったことをご紹介しました。

これは「ハワイ報知創刊七十五周年記念誌」232頁、「問題となった外務省発表」の項に記述が有るものです。

奥村さんのご子息がこれを否定する声明を出したものの、いったん収まりかけたこの問題が再び、宗教間、二大邦字新聞間の問題として着目されたきっかけの一つでした。

「ハワイ報知創刊七十五周年記念誌」では東京の「時事新報」の”某筋着電”として紹介されていますが、上記ディジタルアーカイブでは1919年4月16日付「新愛知」の”某外務当局者談”として収録されています。

なぜ、この時期にこのような報道がなされたのか、外務省、あるいは総領事側になんらかの意図があったのでしょうか。

「ハワイ報知創刊七十五周年記念誌」ではその目的について見解を示しているのですが、そのほかのハワイ日本語学校問題に関する書でこの記事について触れたものがあまりありません。(もちろん、僕自身がそれほど調べつくしたわけではないので自信はありませんが)

たとえば、なんらかの記述があっても良いと思われる以下の書がこの記事に触れていないのです。(見落としが有るかもしれませんが)

・「土佐からハワイへ-奥村多喜衛の軌跡-」(「奥村多喜衛とハワイ日系移民展」実行委員会発行)

・「ハワイ日本語学校教育史」(ハワイ教育会発行)

・「日本語学校勝訴十周年記念誌」(布哇報知社発行)

いずれにしても謎の多いことで、このアーカイブで記事全文が読めたことは僥倖でした。興味持って頂ける方は、上記アーカイブにて「日布時事」あるいは「奥村多喜衛」をキーワードに検索をしてみて下さい。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です