浅海の読み方・遷移

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浅海は本来は伊予の地名浅海(あさみ)からきていますが、時代とともに浅海(あさうみ)や更に転化し浅海(あさなみ)と呼ばれる人たちが生まれます。

浅海(あさみ)の人たちが集団で伊予から移住したのは大島郡平郡島(現柳井市)です。
同じく平郡に住みついた、鈴木一族と平郡を東と西とに分割して住んでいました。
平郡島は半分を鈴木家、他の半分を浅海家で統治しましたので、いまでも鈴木家、浅海家が繁茂しています。地元では「あさみ」と呼びます。

鈴木は日本の鈴木家元祖の紀伊国海南が本貫地で、義経に組しましたので、頼朝に睨まれ伊予の河野家を頼った後、平郡に移り住みました。

浅海も鈴木も平郡舟子(かこ)として毛利藩御船手組に属し、藩主の参勤交代や朝鮮通信使の時、総動員掛けられました。よって身分は士族として壬申戸籍に登録しましたので大島郡では平郡が一番士族の多い地区となりました。

毛利家の所領になる前の大内の時代までは海民(海賊兼半農半漁)で生活をしていました。
関ヶ原の戦いの敗戦で毛利家は防長二州に押し込められます。
それ以前の秀吉の「海賊禁止令」もあり海賊として生きて行くのは困難になりました。
平郡島は大島宰判の管轄となりましたので久賀の代官所の支配下となります。
鈴木一党も浅海一党も海民ですから、平郡住民を百の家に分け三田尻御船手組専属の船子(かこ)となります。後に百二十五家に増加します。
平郡島全体の給与はこの百二十五家が平等に分配する仕組みとなります。
これを「平郡船子給」と言い、長男は島に残り、次男以下は三田尻の御船手組本部に出仕します。

平郡の人の皆が皆、御船手組になったわけではありません。商都柳井に出て、商売で成功した浅海の人たちもいます。
「浅海屋利右衛門」家などがそうです。
柳井(楊井)は毛利藩ではなく吉川家の岩国藩の版図となりますので、慶長六年(1601)年
藩主吉川広家が京都から岩国に移って来ます。

この時、すでに柳井は商都として繁栄をしており、広家は驚いて
「くぼ くぼた おかだ かめおか あさのうみ さかた あきもと しらがね の つじ」と狂歌をよみました。
これは当時柳井の大金持ちの商人を羅列したものです。実名は
「久甫 久保田 岡田 亀岡 浅海 坂田 秋本 白銀 の 辻」の九家を指します。

この時、浅海(あさみ)を詠む都合上、浅海(あさのうみ)としました。これにより浅海(あさうみ)
が出来、浅海(あさなみ)と転化したようです。
尚、浅海氏は平郡島、三田尻(防府)玖珂郡、大島郡に繁茂します。

明治以降、全国に散らばります。
四境の戦いの大島口の戦いでは三田尻御船手組頭の村上亀之助(兼助・惟庸)隊の二番小隊に斥候 浅海 謙助 指令 浅海 務が記録されます。

貴家の改正原戸籍の幕末の人物名がわかれば教えて下さい。
大島口の戦いでは平郡島の人も総動員されている筈です。

1件のコメント

  1. これでスッキリしました。ありがとうございます。
    江戸時代、薩摩国からサツマイモを盗み出し、故郷・大三島の飢餓を救った六部僧・下見吉十郎は下見をアサミと読み、元の姓は「浅海」で毛利家に仕えていたそうです。とするとやはり平郡島にルーツがある可能性ありますね。

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