祖父と帝国海軍の縁

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しばらくぶりの更新となります。最近はPCの前に向かうと目がかすみ、腰、背骨が痛んでくるという状況で、本もろくに読めず、このままブログもサイトも閉鎖か、などと考えていました。

しばらく前のサイトで祖父のことをブログに書くことも実は迷いがありました。祖父も父も、家族も望んでいないことだったかもと。ただ、ここに書いたことにより、思いがけない情報を寄せられることがあり、望外の喜びとなりました。

その中の一つが今回触れさせて頂く重巡洋艦愛宕の模型との出会いです。

本件は以前にもブログの記事に書かせて頂いたので、重複がありますが、なるべく簡潔に記載いたします。祖父に送られた模型を、多くの方々の好意を経て入手することが出来ました。

船舶のモデルを趣味にされている方がインターネットオークションから帝国海軍の船艇モデルを入手され、日本の愛好家の方を介し、寄贈先である祖父の情報を求められて私に接触がありました。
その方からの情報によれば、
・この模型はハワイの廃屋の屋根裏から見つかった。(残念ながら廃屋の場所まではわかりませんでした)
・一緒に『聖徳記念絵画館壁画集』が見つかっていた。

とのことです。
祖父の真珠湾攻撃後の状況から、その方は祖父が(あるいは家族が)この模型を隠したのではないかと推測しておりましたが、私は何とも言えないと答えた記憶があります。以上に書いたことも浅海のプアーなコミュニケーション能力で得たものなので、あるいは間違いがあるかもしれません。

箱には送り主として「呉軍艦大鯨 中邑元司」さんの名前があり、朱書きで「ワレモノ (天地無用)」と追記されています。おそらくは中邑さんが海軍のどなたかに託して祖父に送ったものと思われます。以前にも書きましたが実際に軍艦大鯨の艦長として中邑元司さんの名前が記録に残っており、また経歴を拝見すると何隻かの潜水艦の艦長も務められているようです。

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「重巡洋艦愛宕」は呉海軍工廠にて建造されたとのことですから、呉(祖父の故郷、山口県に近い)の中邑さんが祖父に寄贈してくれたものかもしれません。父が回想していましたとおり、船が好きだったそうですから。

父の回想によれば、帝国海軍の演習の度に頻繁に表敬訪問を行っていたとのことであり、父曰く「FBIに目をつけられたのはそのせいだっただろう」とのこと。その帝国海軍との縁を証明する一つの物証がこの船舶模型なのです。時間と移動距離を考えれば状態は非常に良いと思います。(船橋部分に若干のゆがみがあるのは私が箱から取り出そうとしたときにガラスが落ち込んでしまったせいで、不器用な自分のせいです。出来るだけ修復したのですが)

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インターネットで「重巡洋艦愛宕」の写真を探し、比べてみると本当によく出来ていることに感心します。カタパルト?に搭載された戦闘機も再現されています。金属製の外枠も観察してみたのですが、溶接というかはんだ付けの部分も丁寧でありながら、手作りのような印象があります。まさかこのような模型が販売されていたとは思えないので、どなたかが趣味で作られたものなのでしょうか。底部などもよく見たのですが作り主あるいはメーカー?を示すようなものはありませんでした。(この写真ではわかりませんが木の台の裏には虫で食われた穴が10センチほど大きな溝となって残っています。)

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さて、じつは祖父と帝国海軍との縁を示すものが他にもありました。東郷元帥の揮毫した色紙があったのです。母にこの模型のことを話したときに「うちには東郷元帥の色紙があるよ」と。あああ?。そういえば昔聞いたことがあったような。すっかり忘れていました。しかも当時は送り主の名前まで注意を向けていなかったので。

母の記憶では祖母から見せられたときにはすでに虫に食われたこのような状態であったようです。状態が良ければと思うのですが。「確乎不動」とは「ものに動じないこと」を示すそうで、すみません。知りませんでした。お恥ずかしい。昭和七年という裏面の日付が揮毫した時を示すとは限らないのですが、もしそうだとすれば最晩年の時期になりますね。

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この色紙を祖父に送って下さった中村勝平さんも帝国海軍の沖島艦長などを務められた方のようであり、「中村海軍少将の面影-砺波市出身」という追悼の書が刊行されております。目次によれば東郷元帥に近しい方のようです。近く入手することにいたしましょう。(浅海美津子という方の書かれた「追想記」も収められているようです。多いに気になります)

東郷元帥といえばリリウオカラニ女王王政最後の際の巡洋艦派遣などのエピソードが思い出されますが、日米開戦という状況にあたってはまさか収容所に持っていくこともならず、とはいっても処分することもならず、ハワイに残る知り合いに預けたのではないかと思われます。そしてハワイに戻った際にこの色紙は再度手にすることが出来たのですが、模型にはその大きさから知人宅に預けたままになったのかもしれません。いずれにしてもこれは推測でしかないのですが。

この記事を終わるにあたり、本模型に関わった日米双方の方々に重ねて深く御礼を申し上げます。祖父ゆかりの品を現在入手できるとは思いませんでした。また、この記事を書くにあたり、送り主の方々の名前を掲載させていただきましたが、あるいはご遺族の方々のご迷惑になったかもしれません。お詫びいたします。

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