徳山から周防大島へ

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今日は徳山の親戚にお邪魔し、祖父の兄の興味深い話を伺う。

祖父の兄は呼び寄せでハワイに移住。パイナップル畑、さとう黍畑で働きながら苦学、その努力を認められ本土の大学で医学を学び優秀な成績と研究を残している。クイーンホスピタルやコナの病院で働いたのち、中国、日本で医院を経営。

いや、その苦労並たいていのものではない。優秀で意欲を持つものは人種はどうであれ受け入れる、援助するというアメリカの懐の深さと同時に、本来であれば文学を志したかったというその人物像により興味引かれるものを感じました。ハワイに渡る前に田山花袋に会ったことがあったらしいとのこと。なるほど田山花袋の関わった雑誌への投稿を行っていたのはそれがあったためか。文学への関心は兄弟ともに深いものがあったが、このお兄さんの方が一歩先んじていたよう。

当方の勝手な訪問にも関わらず皆さんに歓待していただき、また、迷惑をおかけし申し訳ないこと至極。周防大島のハワイ移民資料館に車で連れて行ってくださった。早速、新たな発見を。アメリカ本土の強制収容所「日本家族名簿」というガリバン刷り名簿のなかに祖父の名前あり。クリスタルシティ収容所の中の「日本人自治会」がこれを作成していたのですね。その中の第二回交換船帰国者というページに祖父の名前発見。

ハワイでは戦時抑留者が無かったという誤解があるが、実際は本土に比べれば少ないながら存在していたし、ハワイ島内にも収容所があったことに関する体験者の証言をここで読むことが出来る。

明日、再訪を。

39件のコメント

  1. 久能さん
    浅海貞教は、貞忠の息子ですね
    私の高祖父は、貞雄といいます。おそらく当時親戚だったのだと思われます。
    1840年生まれくらいだと思いますので、貞雄の方が年齢が下と思われます。
    また、貞雄の叔父は久能という名字の方がおります。
    多くはないですが、貞教に関する資料みたいなものもあります
    貞教さんのお墓もわかります。
    良ろしかったら、メールアドレスリンクしますので、メールいただけないでしょうか?久能さんのお話も伺いたいところです。
    浅海竜太郎

  2. アサウミや,アサナミとか呼び名が違っても,同じだと聞いてます,また,私の聞いた話では,ハワイに行った,身内がいた,つまり浅海がいたとも聞いてます、また,平群島に海賊として居たと代々いい伝えられて来ましたー小さい頃から先祖は,海賊と呼ばれてたと聞かされてました〜、私の祖父や,曽祖父は,大分県ですみました,大分県や,北海道に住んでた,浅海さんとは,除籍謄本をコピーで,交換したり親戚で有る事が,わかりましたー

    1. おおお。ひょっとしたら直接の繋がりあるかもしれませんね。
      平群島にはこの記事書いて以来お邪魔していませんが、勝手に故郷のように思っております。
      本当に自分の祖先が海賊由来であれば愉快ですし、祖父、父が船好きであったのにも説明がつくように思うのです。
      ありがとうございます。

  3. 私の先祖は海賊で,平群島に居たと聞いてます,九州の身内に聞いたら,確か,親戚にハワイに,渡った人も居ると,聞きました,もうその方は,亡くなりました,ハワイの方は,私は,調べませんでした,代々浅海のいい伝えを,小さい頃から,聞かされて育ったので,懐かしく感じましたー有難うございます、

  4. 私は,旧姓浅海と言って結婚して伊藤悦子と言います、私の先祖は河野一族の中に村上水軍の中に浅海と言って,きく所によると手柄を立て浅海と言う名と刀を貰ったと聞いてます,私の祖父や,一族は,九州にいて,漁場が,増え,一族の何人かは,北海道の炭鉱に,来て,北海道を転々としたようです,私の祖父や,父も炭鉱でした,私は今,北海道の釧路に居ます,釧路には,浅海は,数人しか居ません

    1. 伊藤様、コメントをありがとうございました。
      やはり水軍までたどることが出来るのですね。「アサウミ」と読まれるとのこと。浅海の姓は中国地方、九州北部に多くみられるようです。山口県でも「アサウミ」
      と呼ばれる場合があると聞いています。
      自分が訪問した平郡島に集団で北海道に移住したという碑が残っており、その中に浅海の姓もあったと記憶しています。
      「ハワイに渡った海賊たち」という書によれば海賊、水軍を祖にもつ人々は書かれているとおり九州、北海道、ハワイと移動することを厭わなかったそうです。
      貴重な情報をありがとうございました。家紋は「丸に梅鉢」とのこと、また調べさせてください。

  5. 突然失礼いたします。
    兵庫県在住の木下と申します、父の旧姓が浅海(あさみ)です。そしてその父は当時の布哇で生まれています、祖父はドクターでした。
    たいへんぶしつけであり申し訳ありません、個人情報でもありますが、皆さん鬼籍に入られていますので直接的にお伺いいたします。
    御祖父のお兄様と仰る方のお名前は吾市さんではありませんか?
    間違っていたらお詫びいたします、不適切であるならば削除して頂いて結構です。

    1. 木下様
      コメントを有難うございます。驚きました。そのとおりです。
      浅海吾市といいハワイで医師をしておりました。
      自分は知識がなくいろいろな事を皆さんから教えて頂いております。これを機会にまたご教示頂ければ幸いです。
      有難うございました。

    2. 私の旧姓は,浅海と書いてアサウミと読みます、私の先祖は,河野水軍の中に,村上水軍と言う中に,浅海と言う名で、あります、私の祖父達は,九州のを出身で,ちょっと変わった名前に住んでましたー身内が,九州で,色々な所に居ました、その後、北海道に,炭鉱が栄えそこに,炭鉱を転々として,来ました,もう現在は,私は,釧路と言う北海道に居ます,私の父の家紋は,丸に梅鉢ですが,そうでない家紋の方もいます,浅海の名は,確か聴いたのでは,手柄を立てたから,名前を浅海と頂いたと話して,刀も頂いたと聞いてますが,それ以降分かりません

  6. はじめまして、こんにちわ 目黒に実家のある浅海(あさみ)と申します。
    40歳です。
    私もここ数年ルーツを探索しております。

    おそらく愛媛の浅海がルーツで、いつの時代か丸岡に移った浅海家です。
    私の実家にある文書では、幕末は福井県の丸岡藩士で、その後海援隊に入り、日本海軍中尉となった浅海貞雄がいます。
    (私のひーひーじーさんになります)
    海援隊に入るタイミングあたりで、東京に出てきたと思われます。

    また、浅海貞雄の叔父に藤田天洋(1778-1879)という医者がおり、
    その孫の正方(1846-1886)が現在の東京薬科大学を創設しました。

    愛媛から丸岡に移った一部の浅海が、どういう経緯で移ったのか、
    または、愛媛とは関係ない浅海なのか、その辺が、わからず調べているところです。

    スマホのアプリの「名字由来net」というので調べていると、愛媛がルーツで、その子孫が丸岡に見られると
    記載されているので、それを信じると、まさに私はその一族なわけですが、
    いろいろ情報交換させていただけると助かります。

    1. 浅海竜太郎 様
      コメントをありがとうございます。
      しばらくルーツを辿ることは途絶えているのですが、この時に見つけたことで多いに興奮したことを思い出します。
      ひょっとして伊予の海賊の末裔かもしれないと思ったときはワクワクしました。祖父が海軍びいきだったのもその血かも、なんて。
      海軍中尉になられた浅海貞雄さんのお話を伺ってやはり、と思ったりしました。
      また、いろいろ教えて頂ければと思います。
      思えば浅海という苗字に興味を持ち出してから歴史を見る目が大きく変わりました。島原の乱の死者だったか負傷者に浅海姓を見つけたり、「あさみ」という読みだけで調べた芋地蔵の下見吉十郎秀譽(あさみ きちじゅうろう ひでたか)がやはり愛媛出身(伊予国)で、もとは浅海姓だったことを知ったときもドキドキもんでした。
      これからもいろいろとご教示ください。よろしくお願いいたします。

      1. 休みを取り
        はじめて丸岡に行ってきました

        丸岡での浅海家の菩提寺もわかり
        住職に話を聞いてきました
        詳細の情報は震災でなくなり
        法名と亡くなった日だけの過去帳がありました
        亡くなった日ベースで
        1700年後半近くまでは遡れます

        丸岡の浅海は丸岡藩主 有馬氏について 移動してきたということです

        有馬氏は丸岡の前は短期間 糸魚川にいましたが その前に宮崎の延岡にいました

        島原の乱で亡くなった延岡の浅海氏は 遠い先祖と考えられます

        明治元年くらいの丸岡の浅海家の
        親戚は浅海姓以外も含めてほとんど丸岡藩士でした
        ただし廃藩置県後に藩主有馬について東京に出てきた方が多く
        今は丸岡には浅海家はいないそうです

        ちなみにうちの家紋は
        理由はわかりませんが
        三つ柏 です
        柏が細いものです

        もし同じ浅海さん
        延岡の浅海さんが
        いましたら 情報交換させていただけると助かります

        よろしくお願いいたします

        1. 浅海竜太郎様
          コメントをありがとうございました。時間が空いてしまい申し訳ありません。
          やはり菩提寺は貴重な情報元のようですね。
          確かもう少し詳しい資料を親戚からもらった記憶があり、探してみます。

          家紋といえば・・・。父の眠る墓石の家紋。三つの花のような蕾のような文様が丸に囲まれています。丸にそって内側に葉の模様が配されています。丸に三つ柏に近いようなのですが、はっきりしません。コメント頂いてから家紋のホームページなどで探したのですが、「丸に三つ茶の実」に近いような。ただ、そのものずばりではなかったです。
          この家紋、祖母の着物にあったらしいのですが・・。はたして父方のルーツにつながるかどうか。もう少し真剣に調べればよかったです。

          1. 家紋というのものは、一体どうやって、だれが決めたのか
            全く分からないですが、おそらく苗字と家紋が同じであれば、
            遠い親戚だと思います。

            うちの家紋を再度調べてみると、細い土佐柏を使っているものと
            細くない柏を使っているものとあり、丸に三つ柏であることは
            まちがいないのですが、どちらかはあまりはっきりしないです。

            あと最近わかったことは、
            国が海軍を創設する際に各藩に要請し、
            丸岡藩で選ばれたのが、浅海貞雄で咸臨丸の乗組員であり、
            勝海舟の塾の門下生でした。
            貞雄が海軍で亡くなった後。貞雄の息子(私のひーじーさん)が結婚の報告に
            勝海舟宅に行った際に、勝海舟から掛け軸をもらったりしました。
            その掛け軸は、江戸東京博物館に寄贈されています。

            要するに延岡でも糸魚川でも丸岡でもそうではないかと推測していますが、海賊の流れから海に関することをしていたのかもしれません。

        2. 親が丸岡に住んでいる浅海です。あさうみと呼びます。
          福井の震災で、家系を示すものをしまっていた蔵が潰れてしまい、ルーツは全くわからなくなってしまいました。近所には藤田さんもいらっしゃいましたが、おじさん(おじいさん)は数年前に亡くなり、それ以降親交がなくなってます。
          ネットで見ててこちらのサイトを見つけ、びっくりしました。何か更に情報があれば教えてください。

          1. あさうみさん
            こんにちわ 浅海竜太郎です
            コメントありがとうございます。
            浅海家は丸岡では、当時の六軒町に住んでいたようです。
            (六軒町:P9参照 https://core.ac.uk/download/pdf/61347066.pdf)
            明治前半とそれより前の先祖のお名前がわかれば、
            私の先祖の親戚表にお名前があるが探しみます。
            よろしかったら、メールアドレスか、フェイスブックでメッセージいただけますと、詳細情報やいろいろ資料などを送付することもできますので、よろしくお願いいたします。

          2. 突然の返信失礼いたします。浅海という苗字をネット検索しておりましたら偶然ヒットしました。実は私の曽祖父、久能賢良が浅海沖右衛門貞教という方の次男で文政10年に丸岡で生まれております。天保5年に久能家の養子となったとのことです。なにぶん昔のことですので、久能家のことはわかるのですが、浅海貞教についてご存知ならばご教示願えればと存じます。

  7. 浅海(あさうみ)と言います。還暦を迎え、時間に余裕もできたのでルーツを探しています。昨年は父の祖母の墓が見つかり供養をすることになりました。父は23年前に死去したのでびっくりしました。生前にもっと聞いておけばよかったと後悔です。四国の寺に系図もあるなど断片的には聞いていたのですが何もわからず調べることもなかったのですが、昨年の古くなった墓を供養するときに、大三島の甘崎から笠岡を経て、倉敷市連島に来てなくなったことがわかりました。何か、ルーツに関する情報がありましたら教えていただけませんか?

    1. 美紀子様、コメントを有り難うございます。
      やはり、お寺が重要な情報源なのですね。羨ましいです。僕ももう一度山口を訪ねてお寺さんを巡らなければと考えていますが、どうなることでしょう。
      平郡島の「浅海」はアサミが多いようですが、山口、広島の浅海は「あさなみ」「あさうみ」と様々な呼び方が有るようです。
      大三島ということはやはり四国の浅海「あさなみ」駅周辺がルーツかも・・・。平郡島の浅海も四国の浅海から流れてきた水軍(海賊と聞いてちょっと胸が高鳴りました)とのお話。ただし、僕自身がその流れを引くかどうかはまったく解りません。浅海駅近くの海は文字通り遠浅の海でした。
      https://www.youtube.com/watch?v=FtUbKWuEdVE
      この動画だけ残していましたが、懐かしいですね。もう一回行きたいです。

      私、その後、ルーツ探しが途絶えたままになっています。
      山口県文書館で毛利家家臣に浅海という姓の者があったことを確認していますが、なにしろ古文書には歯が立たず。そのままに。

      ただ、うちの場合は士族ではなかったような気がします。

      うーん、また火がついて来ました。いろいろ教えて頂ければ幸いです。
      (脱線です。岡山には小田郡矢掛町浅海という地名が有るのですね。知りませんでした。こちらは「アスミ」と読むようです。はは。すみません)
      http://www.okayamania.com/chimei/bicchu/asumi.htm

      今後もよろしくお願い致します。

      1. 情報ありがとうございます。これから、少しずつ探していきたいと思います。大三島出身の人と同じ職場で働いていたのですが、先日、私の先祖の話をすると、その人の実家の近辺が甘崎地区、浅海姓の方々が多く居住しているとのこと関係があるのでははと言われました。この辺では、芋地蔵で知られている下見(あさみ)吉十郎さんが有名。地域の学校では教科書にでてきたとか。この方の出身が越智郡瀬戸崎村大字瀬戸だそうですが、私の先祖は、瀬戸崎村大字甘崎なのでどうなのかな?と関係性は不明ですが、何らかの関係があれば嬉しいですが・・・情報いただいた平郡島に一度行ってみようと思います。それから、小田郡矢掛町の浅海についても調べてみようと思います。父の祖父は連島町北面というところで織物業をしていたようです。何か関係があるかもわかりません。ルーツがわかったら文書で残したいですね。今後も情報をくださいませ。

        1. こちらこそ、宜しくお願い致します。
          有り難うございます!。芋地蔵の下見(あさみ)吉十郎さんのこと、失念していました。確か、本を探して読みましたのに・・。下見さんの前の世代か、後か忘れましたが「浅海」から改姓したか、「浅海」に改姓されているのですね。おお、と手を打って付箋を付けた記憶があります。河野家とも繋がりがあるそうなので、やはり水軍に縁がある家系ではと。
          http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=2&P_SNO=33&P_FLG1=8&P_FLG2=2&P_FLG3=8&P_FLG4=0&P_KENSAKU=%90%F3%8AC

          「浅海」一つでいろいろな話題、文化に繋がるので面白いですね。

  8.  練馬の浅海さん、どうも私の記憶は正しかった様ですね、父母は横浜で関東大震災に遭遇、一時大阪に転居、私はそこで生まれました。2,3年後に横浜に戻り、中区石川町の母方の実家にいたときの「浅海清一」さん宅訪問と推論します。どの様な関係で、おたずねしたのかは、父母も亡くなり判りませんが、祖父の代から横浜の久保山に墓地が在ります。それ以前の防府の寺や墓地は、記録によると、私より数えて6代前は三田尻桑山(当時は土葬か)、5代前は三田尻雲光院、4代目は桑山、3代目前から横浜となり、その他それぞれの妻兄弟など、桑山2、雲光院4の記録有り、数年前に防府で墓探し(どなたかもお墓をうろうろ、変に思われて・・・)いろいろの話し在りますが、今回はとばして、当時は何も判りませんでした。雲光院は火事で焼失したのではないか、その程度でおわりました。併しインタ-ネットはすごいですね、先週、(三田尻、防府、浄土宗、雲光院)で打ち込みましたら、バッチリ「明治4年排仏毀釈の際に当「専光寺」に合併したと」、此所を訊ねるとお墓が?在るかも。なんか少しずつ判明しそうです。

    1. 皆様、御免なさい。僕ったらお二方にそれぞれトンチンカンな返信をさせて頂いていて大変失礼しました。
      取り違え以前の勘違いレスで、本当に申し訳御座いません。

      正義さんと練馬の浅海さんに繋がりが有ったということですよね?。なんか凄いです。

      正義さんの探索行、興奮します。そうか、排仏毀釈という断絶点が有るのですね。

      自分も平郡島でお墓を見て歩いている時の申し訳ないような気持ちをちょっと思い出しましたが、正義さんはまた一つ手がかりと目的地が増えた感じですね。

      清一というお名前を拝見していて、祖父、父、自分と三代に渡ってやはり「一」を名前をもつ自分。お二方に歴史の何処かで接点があればと思うのですが。

  9. 練馬の浅海さん、コメントをありがとうございます。おお、やはり海軍なんですね!。
    祖父が船が好きで有ったこと、海軍の方々と親しくしていたことはやはりルーツや血がそうしていたのかもしれません。
    練馬に浅海姓の方々がいらっしゃることはまったく知りませんでした。つい練馬と浅海で検索してしまい、浅海ビルとか浅海写真館があることにびっくり。
    本当に浅海姓の集まりが出来たら面白いですね!。海や船、海軍とのゆかりも調べられたら面白い結果が出るかもしれませんねー。

  10. 練馬の浅海(あさみ)57歳です。祖父浅海清一は海軍兵学校29期です。昭和のはじめに関東大震災により郊外の練馬に疎開し木々に囲まれた屋敷を構えました。退役軍人のもとへいろいろな軍人仲間や親類縁者が新居を見学に訪ねてきたことは容易に想像できます。すでに大きな平屋建ての屋敷は取り壊して今風の住宅が4軒建っていますが全戸浅海姓です。そのうち平群島あたりで浅海(あさみさん、あさうみさん、あさのうみさん、あさかいさんなど全部あり)サミット開催なんて面白そうです。

  11.  もしかして親戚、どうも勘違いの様です。失礼しました。
     Eメ-ルはやっていましたが、HPには、初めて投稿しましたので、あまりル-ルもわからず、間違っていたらごめんなさい。
     当方、名古屋市の住人です。50年ほどになりますが、淺海姓にはなかなか会えず、北東3区あわせて22万所帯の電話帳にも一軒にみ、私を入れて2軒と(浅井、浅見は大勢)極少数派、「淺海」となると直ぐ親しみを感じるもので、山口県や愛媛県には割に多い姓のようですが、三田尻、防府を調べてわかったことがありましたら、お知らせします。

    1. コメントを有難うございます。自分が知らないだけで実はご縁が有る可能性が。もう少し早く浅海、いや、淺海という姓に興味を抱けば良かったと後悔しています。
      もし、お調べになってなにかお判りになったらご教示頂けますでしょうか。五月の山口行きの時、防府もと思ったのですが。寄らずじまいで終わってしまいました。よろしくお願いいたします。

      母の希望もあり、表札を「淺海」で作り直しています。やはり見る度に思い入れが生まれてきます。

  12.  淺海(あさうみ)っていいます。通常「あさみさん」ていわれるので、浅見と間違える人が多くいます。永年の親友でも、年賀状はCPで打ち込んでいるせいか、なかなか直してくれません。
     それはそれとして、大分年を重ねていますので、過去を振り返っています。祖父あたりの資料も少しあり、平郡島から三田尻へ維新後横浜へ、
     さて、御祖父の方が、海兵29期の淺海さん・・年齢から、私が3~4才の頃、昭和5~6年、親戚の海軍軍人で艦長、または艦長さんだった方を訊ねた記憶があります。その家は竹藪に囲まれたお屋敷で、場所はわかりませんが、横浜から母に連れられて行ったような気がします。何故か、父は同伴していたようではありません。
     もしかして、その時の親戚、てな事を首をかしげています。間違いでしたらごめんなさい。少々気になりましたので。

    1. 自分もメール、手紙で浅見と書かれることがしばしばです。同じ会社の同僚でもそうなのでもう訂正するのも諦めいます。(笑)
      自分の父、祖父で横浜を含め関東近辺で浅海性の親戚が居たとの話は残念ながら聞いたことがありません。
      平郡島では海軍はもちろん兵役で国に命を捧げた方の浅海姓の方のお墓を見かけたことがあります。調べれば繋がりが有る可能性がとも思うのですが・・・。

  13. 浅海(あさうみ)と申しますが、浅海姓の由来が全然わからなかったので 「あさみ」やら「あさなみ」やら参考になりました有難う御座います

    1. おお、浅海さん、こちらこそコメントを有難うございます。山口県にはいろいろな読み方の「浅海」さんがいらっしゃるようですね。
      先日の山口行きの成果も未整理です。浅海家について調べるといろいろ面白いと思うのですが、本当は系統だった調査方法があるのでしょうね。まだこれからです。

  14. 浅海(あさみ)と申します。浅海姓に関係する書き込みをネット上にて多方面で拝見しております。「海」に関係した姓(!)癖があると確信しています。ちなみに祖父は山口県三田尻出身海軍兵学校29期生で日露戦争に従軍しました。父親は神戸高等商船学校航海課卒で太平洋戦争に従軍し戦後海運関係の仕事をしておりました。私は昨年銀婚旅行と称して伊予松山に逗留し北条市浅海地区を訪ねました。また村上水軍博物館にて村上水軍の一派河野水軍に浅海氏の一勢力があり戦功により周防大島を拝領したとの解説でした。浅海地区の郷土史家(偶然か)河野氏は平群島に浅海氏末裔が住んでいることを現地にて確認しています。また浅海氏は明治年間にハワイに移住し帰国後北海道岩見沢の開拓にあたったとのことです。海賊の末裔はハワイに渡り北海道を開拓しロシアと戦い日本の海運立国の一助となったと考えたい練馬の浅海です。

    1. おおお、浅海様(ふふふ、ちょっと奇妙な感じですが・・)
      コメントをありがとうございます!。
      やはり海軍関係に進まれたのですね!。
      ハワイに移民しました祖父は大の海軍贔屓だったと聞いております。父が幼いとき、ハワイに海軍が演習で訪れると祖父は父をつれて戦艦を訪問していたそうです。平郡島、あるいは河野家とのつながりは結局確認出来ぬままに終わってしまったのですが、やはり僕もなにかしら「海」につながる筋があったのではと思っています。心強い情報で大変感謝致します。
      そうでした。平郡島の神社にも北海道に開拓した方々の碑があって浅海姓の方の名前がありました。
      今度の五月の連休にまた山口に出かける予定なのですが、どうなることでしょうか。またなにかしら情報があれば頂ければ幸いです。

  15. 布哇の友人にブログのことを伺いまして興味深く拝見いたしました。縁あってハワイ2世の方たちとお目にかかり、彼らの親世代、つまり一世移住者たちの
    苦労話も伺い、かつ、当山哲夫さんの戦前のご著書などもいただきました。
    いま、海音詩社にかかわっておられる方々と(私は短歌はいたしませんが)交流がありまして阿波丸事件を題材にした「シェエラザード」の感想文などを読むにつけ、日布時事の関係者などのことを思い出しました。
    沖縄移民に対する差別など厳しい戦前のハワイ移民の姿に思いをはせたことでした。こんなとりとめもないことをコメントいたしましたが。
    ブログ楽しみにいたしております。

    1. 山崎様、コメントを本当にありがとうございました。当方の運用でご迷惑をおかけしました。
      もう、二世世代の方々も年を召されてなかなか生で体験を伺う機会も失われつつあります。山崎様は貴重な体験をされていますね。
      当山さんの著書を拝読すると、書かれているとおり有るべきではない沖縄移民の方々への差別など心ふさぐエピソードが出てきますね。それでも当山さんは誇り高く生き抜かれたように見受けられます。ハワイ社会で沖縄系文化に一目置かれているように思われる理由のいったんを垣間見た想いでした。
      自分もまったく歌心なく、ハワイの短歌を愛する方々の活動をインターネット上の記事で垣間見るだけなのですが、その一時期に祖父、そしてその兄が関わっていたことを思うと少しばかり誇らしく思います。ただ、今の詩社があるのは守り育てていただいた歴代の会員の皆様、亀田佳子さんをはじめとして活発に活動なさってきた方々あってのことと思います。機会ありましたらもう少し、短歌のこと勉強したく思います。
      阿波丸事件につきましても神戸の「戦没した船と海員の資料館」訪問で自分の無知を自覚しました。いつか、奈良の慰霊碑を訪れたく。
      重ねてコメントを頂きましたことにお礼申し上げます。ありがとうございました。

    1. 申し訳有りません。頂いたコメントが消えてしまったようです。同じタイミングでシステムのバージョンアップを実行していたせいかもしれません。
      ご面倒をお掛けしますが、再度書き込み頂ければ幸いです。
      もし、心当たり無いことでありましたら無視して頂けますでしょうか。ご迷惑をお掛け致します。

      1. 私は旧姓浅海と言います、結婚して伊藤と言います.私の先祖は河野一族の中に村上水軍の中に浅海と言います、私の祖父達は,九州にいて,昔は,変わった名前の地に住んでましたー、祖父や父は,一族数人と、北海道の炭鉱を転々としてました,私は,小さい頃から,話を聞いてました,家紋は,丸に梅鉢ですが,他の浅海さんは,違う家紋です,

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