”Every spire of grass is the work of His Hand.”
M.Yanagi. June 26.’33.
天理教中山管長、藤原義江と同じ 秩父丸でハワイに降り立った民藝運動の父、柳宗悦のサインです。柳はハワイ大学から招聘され、夏季学校およびホノルル美術館での講義を予定。約三か月に及ぶハワイ滞在でした。
もちろん、僕はすぐに柳宗悦と判りませんでした。さすがAI、いやAI様は一発で柳宗悦のサインと判断。ベーブ・ルースのサインもそうでしたが、英文の場合は筆記体であってもかなりの確度で認識できるようです。
宗悦は海外の知人や英語での揮毫の際、自身の名を「Muneyoshi Yanagi」の頭文字をとって M. Yanagi と署名していました。
ウィリアム・ブレイクの引用英語の一節「Every spire of grass is the work of His Hand.」は、宗悦が生涯を通じて深く傾倒・研究し、日本にいち早く紹介した英詩人・画家 ウィリアム・ブレイク の思想・詩句に由来するものです。
ブレイク研究の第一人者であった柳宗悦らしい非常に象徴的な言葉が選ばれています。日本語訳(参考):「草の一葉一葉も、神(彼)の御手の業である。」
以上、すべてAI様の回答の丸写しです。
本当にブレイク作品からの引用かどうかは未確認。柳宗悦のブレイク研究については「柳宗悦とウィリアム・ブレイク 環流する『肯定の思想』」という書があるそうです。いつか図書館で手にしましょう。
https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/B_00151.html
柳宗悦とハワイ
柳宗悦は1933年と1953年の2回のハワイ渡航歴があります。1953年はアメリカ本土、サンフランシスコからの帰りにハワイに寄港。この年、ホノルル美術館から「THE WAY OF TEA」を刊行。
前者は約三か月、後者は約半月の滞在でした。
筑摩書房から「柳宗悦全集」が刊行され、国会図書館でデジタルで閲覧出来るようになっています。ひととおり確認しましたが、書簡、著述でハワイに関するものはほとんどが1933年の経験に基づくものでした。アイヌ、台湾、沖縄への熱量に比較すると、ハワイへの関心は薄く感じます。
日布時事に掲載された対談では「講座の傍らこちらの民芸を研究しようと思っている」としていましたが、英語での講義準備に追われ、十分な時間が取れなかったのでしょう。また、前後の書簡を読んでみますと、国内での民藝の展示、販売がなかなか成功せず、1933年のハワイからの招聘およびホノルル美術館での展示・販売が日本の民藝の紹介、販売の良い機会ととらえていたのは間違いなく。つまりハワイはあくまでもアウトプット優先であり、インプットの場ではなかったようです。
そういったなかでも柳が高く評価したのがタパでした。
ハワイの民芸品ータパは非常に立派だ
「土人の作った紙のような布にTapaというのがある。之は非常に美しい」とし、「ただし、今の土人はもう何もつくっていない。人口も減る一方で、気力もない」
とその技術が失われつつあることを憂いています。書簡によると1951年に知人、白澤良宛てにタパを送っているのですが、
「新作で昔のほど味がよくありません」
「木の皮を叩いて打ち延ばしたものですから、紙でもなく布でもありません、フェルトでもないのです。原始的ですが、面白いやり方と思ひます」
と評価しつつも時とともに質が落ちていっていることを嘆いています。
この白澤良という人物は「名だたる芸術家・文化人」のサロンというべきコーヒー店「うぃんな」を1951年に開店。柳宗悦やバーナード・リーチや荒木経惟、芹沢銈介といった芸術家がそのコーヒーを愛したそうです。そのコーヒー店の壁をタパが飾ったのかもしれません。
おそらくタパも日本民芸館の収蔵品の一つのはずですが、『柳宗悦蒐集 民芸大鑑』をあたってもタパは収録されておらず、日本民芸館の収蔵品データベースをあたってもタパはヒットしませんでした。
ただ、テーマによっては日本民芸館にタパが展示されることがあるようです。
日布時事紙上の柳宗悦 1933-1935年
邦字新聞データベース※の日布時事掲載記事から1933年の来布期間中を中心に柳宗悦の記事をひろいました。検索機能の他、目視でチェックしましたが漏れがあると思います。
※フーバー研究所ライブラリー&アーカイブズ 邦字新聞デジタル・コレクション
2026年10月29日参照
| 記事記載日付 | 記事タイトル・見出し、概要 |
| 1933/06/22 | 珍客満載の秩父丸 |
| 1933/06/23 | 秩父丸到着 |
| 1933/06/23 | 柳氏一か月逗留 |
| 1933/06/26 | 日本は東西文化の融合地ー東洋を西洋に教えるため最も恵まれた立場にある 「講座の傍らこちらの民芸を研究しようと思っているが・・・」 ハワイの民芸品ータパは非常に立派だ 東京美術学校教授矢代幸雄との対談において |
| 1933/06/26 | ハワイ大学夏季学校始まる |
| 1933/06/27 | 民芸の唱道者 ハワイ大学およびホノルル美術館での講演日程 |
| 1933/07/06 | ホノルル美術館での英語による朝鮮美術講演報告 |
| 1933/08/04 | ホノルル美術館での講演成功裏に終了 |
| 1933/08/12 | マキキ教会にて「宗教に就いて」講演 |
| 1933/12/04 | ホノルル美術館展での展示、販売について |
| 1935/10/28 | 日布時事創刊四十年記念号 寄稿 日米文化を融合して太平洋の平和建設へ 「ハワイの学生ー移民五十年に際して」の内容に通じるものがある |
柳宗悦全集著作編におけるハワイ
柳宗悦の仕事におけるハワイの位置づけをさぐるべく、国会図書館収蔵、筑摩書房の『柳宗悦全集』著作篇をあたってみました。検索キーワードは「ハワイ」「布哇」「ホノルル」を用いました。したがって英文の著作は漏れています。ページまたがりも漏れているかもしれません。
| 巻 | 巻名 | 内容 | 頁 |
| 第9巻 | 工藝文化 | 解説 民芸運動の展開:1933年ハワイ渡航前後の著述の仕事について | 586 |
| 第10巻 | 民藝の立場 | 西銀座「たくみ」(民芸品を扱う店)の開店について ハワイから帰国後1933年12月 | 446 |
| 第14巻 | 個人作家論・船簞笥 | 「仏教と欧米思想」 1950年ハワイで開催された世界哲学者会議での鈴木大拙について | 469 |
| 第14巻 | 個人作家論・船簞笥 | 「先生を訪ねて」 1953年ハワイで聞いた鈴木大拙の評価 | 475~476 |
| 第14巻 | 個人作家論・船簞笥 | 「かけがえのない人」 1953年ハワイで聞いた鈴木大拙の評価 | 483 |
| 第15巻 | 沖繩の傳統 | 「首里と那覇」 ハワイでの入れ墨 布哇では入れ墨の店があり白人が利用している(ほど一般的)と紹介 |
260 |
| 第17巻 | 茶の改革 隨筆1 | 「布哇より」雑誌「工芸」31、32号に掲載された1933年のハワイ滞在報告記。 編集余禄に「馬鹿に綺麗な町だ。一寸考えられないくらい美しい。町全体が別荘のようだ。それだけ年中いたら飽きるかもしれない。緑が濃くて花が今町中咲き乱れている。」という便りが紹介される。 柳兼子宛他の書簡にも同じような表現がある。 |
524~529 |
| 第17巻 | 茶の改革 隨筆1 | 「ハワイの学生ー移民五十年に際して」1935年に発表した文章。 2年前のハワイ行を回想し学生気質を論じる。 聴講生には仏教およびキリスト教への知識がはなはだしく薄く、講義に困難を感じたという。 宣教師がハワイの経済を握ってきた歴史にも言及。地理的歴史的曖昧さはあるが、 「彼らは生まれながらにして国際人なのである」 「これを生かして東西の間に立つことが出来るなら、 その精神的、ならびに政治的使命は大きいではないか」 注意すべきは柳が受け持ったのは夏季クラスの授業であること。生徒の大半が小、中学校の先生だったという。 つまり、受講生の大半はハワイ大学の学生ではない。 ただ、この時期の若者には東西の中央に位置するハワイの役割を意識していたことは間違いないと私、浅海も感じている。 |
530~534 |
| 第17巻 | 茶の改革 隨筆1 | 「国民意識を明確に自覚せよ」「大阪毎日新聞」1933年7月23日所収。 なお『題は余のつけしものに非ず』とのこと。 「日本の今日の任務は、外国のことを受け入れてのみこむより、はき出して、いろいろなものを與えることである。ハワイへの今回の行も、出来るだけ深く、日本を紹介したいと思って引き受けたのである」 |
599~601 |
| 第19巻 | 南無阿彌陀佛 隨筆3 | 「東西南北」 東西南北に関する論考で、ハワイ人からすると日本は「日の没する国」であるという一行がある。 |
648 |
| 第20巻 | 編輯録 | 雑誌「工芸」編集録 1933年にハワイ大学講義、ホノルル美術館で講義、 その後展覧会が行われることを報告。 日本の美術館で工芸の展示が進まぬことを憂い、その中で海外での機会を喜ばしく感じている。 |
212 |
| 第21巻上 | 書簡 | 1933年1月24日濱田庄司宛 「最近ハワイ大学から招聘があり、この夏出かける。」 |
523 |
| 第21巻上 | 書簡 | 1933年2月5日濱田庄司宛 ハワイ大学へ承知との変電を打った。 |
525 |
| 第21巻上 | 書簡 | 1933年5月7日外村吉之助(民藝運動家、染織家)宛書簡 浜松の美術館からホノルル美術館での展示に加えたく、その品物選定、送付の依頼。 |
543 |
| 第21巻上 | 書簡 |
1933年8月6日外村吉之助宛書簡 |
546 |
| 第21巻上 | 書簡 | 1933年9月1日島根県森永重治(織物職人・染織家)宛書簡 仕立ててハワイで着用した服が西洋人から好評で、美術館での展示に加えたく同じ服地一着分があれば送ってほしい。 |
547 |
| 第21巻上 | 書簡 | 1933年9月8日武内潔真(美術評論家 元・大原美術館長;元・倉敷考古館長)宛書簡 ホノルル美術館での民芸展について相談したい。 |
547-548 |
| 第21巻上 | 書簡 | 1933年10月1日武内潔真、太田直行(島根の民芸活動家)宛書簡それぞれ ホノルル美術館宛展示物に封入の印刷物を添付することを依頼 |
551 |
| 第21巻上 | 書簡 | 1933年10月6日武内潔真、外村吉之助宛書簡それぞれ ホノルル美術館宛て展示品出荷を20日まで行うよう、また通し番号付き付紙を貼るよう依頼 |
552-553 |
| 第21巻上 | 書簡 | 1933年10月25日倉敷市森田源二宛書簡 ホノルル美術館宛てに発送した展示物に「平和織り」※があったが他の展示物と調子があわないため、展示対象から外すことを通知 ※https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/87486 |
555-556 |
| 第21巻中 | 書簡 | 1934年2月12日太田直行、武内潔真宛書簡それぞれ 「ハワイ展の件」ホノルル美術館展示品の販売について報告 評価も良く関心を集めたが、昨今の日本製品への税関の目が厳しく、高額な関税がかかり美術館が手配した現地の商人も手を引いてしまった。 「ここでも反日のうきめに」 そのまま返品となってしまったが東京、ホノルル間の運賃は美術館負担とのこと。 商品を長期、寝かせたことになったことを詫び、 「ただ真の日本品を紹介したという仕事だけは無駄ではなかった」と結んでいる。 |
7~8 |
| 第21巻中 | 書簡 | 1934年4月17日太田直行、武内潔真宛宛書簡それぞれ ホノルル美術館が幾つか購入してくれることが判明、その場合の売値の相談。 当初考えていた五割増しではなく二割引きにしてはどうか。 運賃を負担してくれているので |
21 |
| 第21巻中 | 書簡 | 1934年6月20日太田直行、武内潔真宛宛書簡それぞれ 明細書と金子を送付。収支報告。 |
25 |
| 第21巻下 | 書簡 |
1951年2月13日映画サロン 白澤良※宛て |
32 |
| 第21巻下 | 書簡 | 1953年6月1日沖縄那覇市長 又吉康和宛 「ホノルルにて多くの沖縄県人に会い、二回ほど集りに招かれ、大きな悦びでありました。」 |
104 |
| 第22巻下 | 書簡補遺、年譜 | 解説 柳宋悦の書簡 書簡の数は後のアメリカ滞在中のようには多くない。 「但し、帰国後ハワイで民藝即売展を開催し、その後始末の経緯がみえる。」 ホノルル美術館での展示、、販売のこと |
32 |
| 第22巻下 | 書簡補遺、年譜 | 1933年6月5日陶芸家 河井寬次郎宛 ホノルル美術館宛展覧会荷物の出荷を依頼している。 宛先のMrs.JenksはKathrine McLane Jenksのこと。 彼女は1929年〜1935年の間ホノルル美術館の館長を務める。 |
59 |
| 第22巻下 | 書簡補遺、年譜 | 1933年6月21日秩父丸から柳兼子宛 秩父丸船内の様子。一等船客から依頼された講演。藤原義江、天理教二代真柱の講演への感想などがつづられている。 1933年6月28日ホノルルから柳兼子宛 ホノルルの町の様子、大変美しい。それに人々がとても親切でのびのびしている。 大学の講義については聴講生に東洋についての予備知識が無いく苦労と。 (この書簡の内容と雑誌「工芸」に掲載された「布哇より」は重なる部分が多い。) 1933年8月6日ホノルルから河井寬次郎宛 民芸品の展示が好評。商人も乗り気とある。 (後の書簡で関税が高く販売は不調に終わることが判る) |
60-63 |
| 第22巻下 | 書簡補遺 | 1933年10月6日河井寬次郎宛 ホノルル行の木工品出荷、値札作成の依頼。運賃があるので値段は五割増で、と指示 |
65 |
| 第22巻下 | 書簡補遺、年譜 | 1951年1月20日静岡から柳兼子宛 タパ(「白地に茶の文様がおしてある」)を送ってくれるよう依頼 2月の白澤良宛て書簡にあるタパと同じものと浅海は推測。 以下のリンク先チラシに掲載されたものとは別であろう。 https://mingeikan.or.jp/wp-content/uploads/2024/11/pamphlet_202601.pdf |
171-172 |
| 第22巻下 | 書簡補遺、年譜 | 1953年2月3日ホノルル岡崎医師※の家から柳兼子宛 パシフィックハイツ(眺望が望める高級住宅地)の岡崎医師宅※から 「高い丘の上の新築で、景色が朝も昼も夜も、非常に美しい」 講演などで多忙に過ごすこと、ハワイ島に二泊の予定で出かける。 休養するつもりだが出来そうにない、と。 ※岡崎久郎 医師(Dr. Kyuro Okazaki)か? ハワイ報知紙面によれば岡崎久郎 医師宅にて1968年10月に潮音詩社の月見をかねた十月歌会が開かれている。一種のサロン的な役割があったか? https://hojishinbun.hoover.org/ja/newspapers/thi19680926-01.1.2 ハワイ報知 The Hawaii Hochi (ホノルル), 1968.09.26,2面「月見と歌会」,2026/10/29参照 |
183 |
| 第22巻下 | 書簡補遺、年譜 | 年譜 1933年 6月15日秩父丸出発22日ハワイ着、ハワイ大学にて「東洋宗教と芸術」を講じる。 7月1日から8月15日までホノルル美術館で持参の民芸品を展示。 毎水曜日に「朝鮮美術研究」、毎木曜日に「日本美術」を持つ 8月31日帰国 |
259 |
| 第22巻下 | 書簡補遺、年譜 | 年譜 1953年 1月サンフランシスコから26日ハワイ着、連日講演などの催し 2月1日から15日まで自由行動。それでも随時講和や会食などで忙しい。 15日ハワイを断ちウェーキ島経由で17日羽田着 12月 ホノルル美術館から「THE WAY OF TEA」刊行 |
285 |