大島郡周辺の人々のハワイ行きから収容所体験、そして帰国までの歴史

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大島郡は官約移民がハワイ王朝との間で契約ができた時、井上外務卿は地元で人口が増えて困っている大島郡(平郡島を含む)人を優先的に移出させるように県庁から二人の専門官を派遣し、各村長を説得し集めました。各村長はお上のご意思と思い、国家の為、募集しました。

第一回は「知らない土地へ捨てられる」と思った人たちが多く、しり込みしましたが、小松村の庄屋であった岡村家の跡取り息子が「私も行くからついてこい」と言ったとたんに、流れが変わり、「棄民」ではないとの空気となり、第1回船は殆ど大島郡人がハワイに行きました。

それから数か月の後に久賀郵便局(当時は久賀しかありませんでした)に「金が届いたから印鑑もって取りに来るように」と連絡が大島郡全域で起こり、みんな歩いて久賀まで行きました。送られてきた金が自分たちの年収に匹敵するものだったので、大喜びで遠近で「飲めや歌え」の大騒ぎになりました。

その後、毎月、莫大な金額が送金されましたので、あの住友銀行が慌てて、柳井に支店を開きます。大銀行に取られてなるものかと、地元の有志もこちらも慌てて、「大島銀行」(現山口銀行に併合)を設立します。ハワイは横浜正金銀行が窓口だったようです。

流れを変えた小松の岡村広吉の娘の道枝が後に「ハワイ報知」の牧野金三郎と結婚しました。貴ブログの中にハワイ島で珈琲栽培をしていたから「コナ」と名ずけた喫茶店が出てきましたが

この店の近所に岡村家がありました。

牧野金三郎は開戦時に収容されなかったとされますが、彼は白人とのハーフだったからかもしれませんね。

話変わって、私の隣の婆さんはカルホルニアで生まれ、開戦時に強制収容所に連れて行かれました。赤ちゃんでしたので、記憶が薄く、近頃私に調べてくれと依頼されましたので、当時の状況を調べています。
戦後になってもアメリカに忠誠を誓わない各収容所の人たちはツールレイク収容所へ集められ、最後の説得を試みました。どうしても忠誠を誓わなくて、米国籍放棄(二世)と日本帰国申請をした最終、3000人が日本に送還されました。この人たちの事を米国に残った人たちからは「勝った組」と呼ばれ、日本は負けたではなく勝ったのだ」と信じ込んでいた人たちとされます。
この人たちは二回に分かれて横須賀に帰国します。
そこから進駐軍手配の国鉄特別列車でそれぞれの故郷に向いました。
当時の日本は一般人は列車に乗ることが難しい時代でしたので、日本人が大勢乗っているのが分かると大騒ぎになりますから、昼間はブラインドを下げて外から見えないようにとの指示があったとの事です。
大島の最寄駅は大畠駅ですので降りたのは二十数家族とされます。
田舎に帰ってきたら家は無いわ、仕事は無いわ、食べ物は無いわで、二家族を除いて皆またアメリカに帰っていったそうです。ハワイの人は財産没収されていませんでしたが、米本土の人は米国に行っても生活の糧がないので、兵隊志願の名目で再渡航したとされます。

確かに、最後の強制収容所から残務処理の米滞在希望の人たちを除いて全員が日本帰国の途に着く時収容所長は全員を食堂に集め、日本は負けたのだから帰国しても苦労するから、もし乗船するまでに気が変ったら近くの係員に申出て下さい、滞米を認めます」と挨拶しました。

「勝った組」の人たちは「米国は日本に負けたから下手に出てるんだ」と解し帰国への願望をつのらせました。

隣の婆さん(当時6才)が語るには、横須賀を下船する時、米兵が「もしアメリカに戻りたいならこのまま下船しなければ連れて帰ります」と言ったそうです。

かつ、日本は物がありませんから船で使ったものの毛布やその他は好きなだけ持って行っても構いませんと

言われたそうですが、「俺たちは乞食ではない」として下船したそうです。
下船した横須賀では米国帰りの日本人の荷物を狙って多くの日本人が待ち構えていたそうです。
長くなりました。この時の帰国者名簿を探しています。

1件のコメント

  1. ありがとうございます。周防大島周辺の方々の移民の流れよく理解できました。
    文中の帰国船の乗客名簿ですが、第二回交換船のものでしたらあるかも知れません。探してみます。(お時間をください)

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