the Japanese students’ association of Hawaiiのstudents’ annualを布哇文庫で取り上げました。手元にあるのは1925年版と1929年版だけ。1921年から刊行されているはずですが、他の号を閲覧出来ないか、CiNiiで調べてみました。その結果、1927年版と1930年版を東京大学の図書館で閲覧出来ましたので、興味ある方向けに紹介させて下さい。
1927年版は東京大学総合図書館で閲覧が可能。カウンターで書名、所蔵情報を伝えます。CiNiiの検索情報をプリントアウトしておくのが良し。
1930年版は東京大学文学部2号館図書室(法文2号館4階)に所蔵されています。あらかじめ書名など書誌情報と書庫番号等と閲覧希望日指定のうえ、メールでの申請が必要です。CiNiiでは書名がJapanese students’ annualとだけなっていますが1930年版のVol.10です。
以下、ざくっと手持ちの1925、1929の各号の特徴と合わせ紹介させてください。戦間期にハワイの若者を取り巻く様々な事項が反映されているのをお分かり頂けると思います。
1925年号は先の紹介文でも書きましたが「二重国籍問題」号です。ご存知のとおり日本は血統主義でアメリカで生まれた二世達は二重国籍になる。二重国籍では様々な弊害がありましたからハワイなどから日本に対して国籍離脱を可能にしてほしいとの請願がなされていました。この請願がかなって1924年12月1日に改正。日系の若者には大きな出来事であったでしょう。
(裏表紙に日布時事の社章と「OMEDETO」との文字印刷有)
1927年号は「Harry Shiramizu」からの謹呈本になっています。直接東京帝国大学に贈られたものかは不明です。この号の編集長はHarry Shiramizuとなっており、編集長からの贈り物ですね。この人物については今のところ、浅海は情報を持っていませんが、当時のハワイ大学新聞に署名記事があります。坂巻駿三さんと一緒に大学新聞で活躍されていたようです。
→Ka Leo O Hawaii The Voice of Hawaii DECEMBER 25,1926
僕がこの1927年号に強いて名前を付けるとすれば「New American」号となります。冒頭からやたらと「New American」の二語が出てくるのです。「New American」から日本語学校問題でお馴染みの奥村多喜衛さんが二世向けに刊行していた雑誌「ザ・ニューアメリカンズ」を想起しますが無関係でしょうか。(1)
しかし、なぜ1927年号に?。奥村親子が1927年から開催した日系市民会議(New Amerian Conference)と結びつくのでしょうか。(2)
短いですが力強い奥村多喜衛さんからの起稿も掲載されています。
(裏表紙に日布時事の社章印刷有)
1929年号は特徴的な記事は浅海の知識不足で挙げられませんが、強いて言えば「The Faithful」号。忠臣蔵の物語を歌舞伎様式で英語で上演した様子を写真を含め7ページで紹介しています。この舞台は1924年が初演ですが、1929年の再演はstudents’ associationがスポンサーとなった最初の舞台。紹介に力が入るはずです。写真でみるかぎり衣装も装置も本格的なものです。
(裏表紙に日布時事の社章印刷無)
1930年号は「布哇学生會」の安達正之さんが東京帝国大学に寄贈したもののようです。(students’ associationの日本語訳が「布哇学生會」であることを確認できました)しっかりとした筆致で「謹呈」の文字が記されています。日付は昭和五年(1930)六月となっています。この号を開くと安達正之さんは当associationのビジネス・マネージャの任にあったようです。
もう少し調べてみますと1930年6月30日に同志社大学を訪問したハワイ大学訪問団の代表が足立正之となっており(3)、おそらく同一人物です。坂巻兄弟と同じく日本を訪問した学生の一人ですね。
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』を検索すると
是日栄一、アメリカ合衆国ハワイ日系市民学生母国見学団ヲ飛鳥山邸ニ招待ス。
とありその見学団の筆頭に安達正之の名があります。ただ、この項の日付けは昭和二年七月三日です。同一人物とすれば少なくとも2回は日本を訪れたということになります。渋沢栄一がハワイからの来客を迎えることは珍しいことではなく、ハワイ大学教授リーブリックや奥村多喜衛の名前を頻繁に資料に見ることが出来ます。
さて、この1930年号に名前を付けるとすれば、この上記訪問団にも関係しますので、「同志社友好」号としましょう。同志社大学から4名の学生を迎え入れ、ハワイの若者たちとの交流を果たしたことが記事の中心になるからです。訪問した学生からのエッセイを含め6ページほどがこれに割かれています。「ハワイ日系2世とキリスト教移民教育」によればこのプログラムは坂巻駿三さんの企画、引率で約一か月の間に多くの招待、講演会、弁論大会をこなしています。日布時事主催第1回国際日本語雄弁大会(同志社大学対ハワイ青年)が行われ、安達正之さんは、「移民と文化」という演題でハワイ側の一位に入賞しています。(4)
ホノルル商工会議所発行の「日商工七十年史 虹の塔」を開くと1960年度に商工会議所の会頭を務められた安達正倖氏の記事があります。漢字は異なるが内容から安達正之ご当人であることは間違いないと思われます。「学生運動につくす」との記事から少しだけ引用を。
この記事によれば氏は熊本県生まれで14歳の時に両親につれられハワイに移民。(二世ではないのですね)。太平洋学院を経てハワイ大学に進む。
この間常に学生間の指導者として活動、・・・
やはり2度、日本を訪れているそうです。渋沢栄一子爵に
私は微力ながら日米親善のためにつくしてきた。諸君は両国の楔として、もっとも重大なる任務をおびていられる。折角努力をされることを祈る
と声を掛けられたそうです。(5)
その他の記事としてはstudents’ associationがスポンサーとなる舞台の第二弾、「The Soga Revenge」の上演について。(人気演目を立て続けですね)
この号では初めて日本語の活字が本編に登場します。詩が二編、英訳とともに記載されています。
(背表紙に社章の印刷があったかどうかは確認し忘れました)
(1)吉田亮著「ハワイ日系2世とキリスト教移民教育」学術出版会,2008,p112
(2)吉田亮,前掲,p113
(3)吉田亮,前掲,p308
(4)吉田亮,前掲,p307,p332
(5)ホノルル商工会議所,「日商工七十年史 虹の塔」,p200 (引用記事は川添樫風記 1969.12.17)