ヴォルケーノ・スクールとJules Tavernier

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もし、ヴォルケーノ・スクールに興味を持たれた方がいらしたら以下の二冊を揃えられると良い。

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ここから書くことは以前に書いたことと重複する事をご容赦頂きたい。
ヴォルケーノ・スクール誕生にはJules Tavernierという画家に触れずにはいられない。パリ生まれの彼はアメリカに渡り、本土の各地を巡り、ほぼ横断する形で西海岸に至る。彼は雑誌の依頼でアメリカの珍しい光景を絵に残している。オークションサイトなどで彼の作品が掲載された雑誌が売られているが一揃いを手に入れようとすると、かなりの出費を覚悟しなければならない。
彼は逃げるような形でハワイに渡るが体を壊し、ハワイ島ヒロのある弁護士一家の世話を受けることになる。その弁護士というのが、実は画家ヒッチコックの父親だった。父親と画家は同じD. Howard Hitchcockという名前であったので、区別するために弁護士のヒッチコックをシニア、画家をジュニアと呼ぶことにする。
ヒッチコック・シニアは勿論ジュニアを弁護士にするつもりであったのだが、息子はハワイの山野を巡り歩く事を好んだ。彼の絵の才能を見抜き本格的に勉強するように勧めたのがJules Tavernierだった。結局、ジュニアは画家としての道を選び師匠であるJules Tavernierの生まれ故郷パリで絵の勉強をすることになる。
さて、絵の題材として火山の魅力に気がついていたのはJules Tavernierであり、実際、彼の火山の絵は良く売れた。アーウィンが日本からの移民を推進する為に明治天皇に贈るべくTavernierの絵を購入したという記述が上記の本にある。もし、それが本当で、実際に明治天皇に贈られたのだとすれば日本に彼の絵が少なくとも一枚存在する事になる。
先に紹介した二冊のうち後者には暖炉の前でくつろぐ男性のスケッチが掲載されている。Tavernierの手によるその絵に描かれた男性こそ弁護士のヒッチコック・シニアだと推定されているのだそうだ。
この弁護士のヒッチコック・シニアについてはもう一つ語るべきことがある。ハワイ島で起きた悲劇、後藤闊殺害事件の裁判で日本側、つまり検事として現地の被告を追求した人物なのだが、これは何故かあまり語られることが無い。
続きはまた後日・・・。

2件のコメント

  1. 浅海様 ご無沙汰しております。「マウイ島からマノアの村へ」の中陣です。ここのところ沖縄や労働問題に深く関わり布哇の勉強がおろそかになっております。/後藤闊のリンチ事件が強く心に残り”Hamakua Hero”を取り寄せておりました。日本でもこの人柄・事件を知らせる必要性を感じております。”Patsy Iwasaki”氏のドキュメンタリー映像も見ました。この件で意見をお聞きしたいのですが。

    1. 中陣様、ご無沙汰をしておりました。
      有難うございます。浅海もこの映画予告編を拝見して期待を膨らませています。
      アルメダ・ヒッチコックの記録をみても当時のハワイ島の状況に興味が募るばかりです。

      沖縄については戦争前に日本からハワイに移ったある人物と沖縄の関係で新たに関心を持つようになりました。戦後の豚輸送計画にも繋がる人物です。また色々と教えて頂ければ幸いです。

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