さすがに三回もひっぱると読む方もうんざりですよね。いろんなこと盛り込もうとするからいけないのです。
さて、真珠湾攻撃当夜のことですが、この件についてはTomi Kaizawa Knaefler著「OUR HOUSE DIVIDED」、邦題「引き裂かれた家族―第二次世界大戦下のハワイ日系七家族-」に詳しいため、詳しくはこちらを参照頂いたほうが良いでしょう。情けないことですが、父の口から聞いたことより、この本、記事から知ったことの方が多かったです(笑)。父達家族がネイフラーさんから取材を受けていたことは聞いておりました。古い記事の切り抜きも目にしています。おそらく父や親戚は本になることをネイフラーさんから聞いていたはずで、近況なども出版当時のものが反映されています。しかし、当時の記録を一冊の本として残されようとした著者の熱意、そしてそれを読める幸せを感じますね。本書の英語版は親戚から贈られてきたものですが、翻訳版は僕が書店で購入しました。まさか翻訳されると思ってみなかったので、書店で原著と同じ装丁デザインの実物を目にしたときは興奮してしまいました。
本書には庄一一家が戦争の18ヶ月前に日本に向けて出航する際の写真が掲載されています。父が若い。まだ10代の後半ですからね。ひょっとすると、この日本滞在時に模型を父に贈った海軍の方、あるいは近しい方と会ったのかもしれません。
これより前、祖父、浅海庄一は2回、そう、僕が知るかぎり最低3回は日本に帰国しています。「アジア歴史資料センター」の資料を「浅海庄一」で検索すると、三件のデータがヒットします。
一件目が大正十五年、久方の帰郷を兼ねるとともに実業界、教育界の諸名士に面会、取材することを目的とし、「朝鮮」にも足を伸ばしているようです。
二件目が先の書き込みで触れた高松宮帰国への同行取材を機会に日本各地を取材するのに鉄道パスの発行などで便宜を図るようにとの通達になっています。便宜を図る目的に日本紹介の記事をもって外人観光客、渡航客の増大を図ることがあったようですが。(当時の切り抜きを読むと果たしてその役目を果たしたかどうか。たしかに観光地への言及はあるのですが)
三件目は戦時中の第二次交換帰国者国別リストになってしまい、戦争前の日本来訪についてはここでは情報が得られません。父の回想ですこし触れられていますので、それはまた別途記させてください。(といって書かないままの記事が多いですけど。)
<サンド・アイランド>
さて、前置きが長くなりました。真珠湾攻撃当夜、FBIエージェントが浅海家を訪れ、祖父を収容します。収容の経緯や扱いについては古屋さんの「配所転々」に詳しく書かれていました。なにしろ、当時、日系人社会でそれなりの位置を占められていた方々ばかり。壮年から高齢の方々ばかり。病身の方も収容されたというから、今から思うとひどいものです。そのほかの体験と総合して読みますと、収容の基準が曖昧(基本的に日系人の実業界、報道関係者。宗教関係、教育関係でリーダーと目される方々でしたが)、牧野金三郎さんが収容されなかったり、もしくは収容の時期がずれたりして当時の日系社会に疑心暗鬼を生むことになったようです。加えて先の見えない収容所生活、精神的、肉体的に追い詰められた方が多かったと目されます。自殺を図ったり、衰弱し亡くなった方も。
また、食器が亡くなったといって野外で裸に剥かれ、数時間にわたって起立したまま検査されたこともあったと。かなり屈辱的な扱いです。それなりに誇りを持った方々ですからね。僕も祖父の享年を超えてしまい、体のあちこちに不具合を感じるようになってしまいました。この年齢になって改めてこれらの記録を読むと、(歴史上の他の国々の収容所経験と比べたらまだましな方なのかもしれませんが)、胸が悪くなる想いがします。以前記述したクリスタル・シティ収容所の比較的快適な環境に比べると、サンド・アイランド収容所、本土の初期の収容所生活は、悲惨なものと言って良いのではないでしょうか。
なにしろサンド・アイランドは急ごしらえの収容所であったため、簡単な柵を頑丈なものにすべく、閉じ込める収容者自身にその肉体労働へ強制的にかり出したそうです。それも日布時事の相賀社長などのお年寄りも引っ張り出されたとか。「配所転々」によれば祖父も重い柱運びをやらされたそうですが、二人で行う作業でしたが、幸いなことに相方が若くて力のある青年で、真ん中あたりをその青年が担ぎ、祖父は柱について歩く形になったとか。まあ、言ってみれば要領良かったというかんじです。
また、便所掃除も収容者の仕事、当初は誰もやりたがらなかったそうですが、庭で一日腰をかがめているよりはマシだと希望者が多くなり、当番制になったとか。ただし、便所の白いタイルばりの床を「なめてもよい程きれいにしないと検査が通らなかった」由。あるとき、祖父ともう一名の二人で掃除している最中にお腹をこわしていた古屋さんが便所を使わせてくれ、「用がすんだら、足跡はモップできれいに拭くから」と頼んでもガンとして利用を許さなかったそうです。親しい間であったがゆえに腹がたったとちょっとユーモラスに書いてましが、いくら検査が厳しいといっても、もうちょい融通が利いても良いですよね。結局、古屋さんは「パンツを汚す覚悟で」テントの陰で検査を終わるのを待ったそうです。(祖父については川添樫風さんが「移民百年の年輪」で『前夜宴会に出てどんなに夜更かしをしても、翌朝は誰よりも早くイの一番に出社するのが浅海さんであった。(中略)勤務時間中。私用の電話をかけなかったのもこの人で、こうした点、公私の別をつけるのに、恐ろしいほど厳格であった。」としています。
<キャンプ・マッコイ>
もっと触れたいことはありますが。もう長くなりました。先に急ぎましょう。その後、古屋さん達は本土のキャンプ・マッコイに移送されます。ここでは自治制といってもよい組織がくまれ、祖父は宮本一男ドクターと放送部になったそうです。「浅海青波君は。各家庭からの手紙を種にして、ハワイ版として放送した。」その手紙は検閲済みのものであったため、格別のニュースがあったわけではないそうですが、それでも慰めにはなったそうです。
ある時は、浅海青波君の鴨緑江節を合唱したが、中には歌っているうちに涙声になる人もあった。それは次のような歌詞であった。
捕らわれの同胞、ここに二百人
積もる苦難はアラ重くとも ヨイショ
君の御為ヨ国の為ヨ
捧ぐるマタ犠牲の身は軽し チョイチョイ果てしなきシェラネバダの雪景色
右に眺めてアラ行く汽車の ヨイショ
行方も知らぬヨ度の空ヨ
続くマタ流転の道遠し チョイチョイアメリカとカナダ境の風寒し
マコイ・キャンプにアラ照る月の ヨイショ
月の光はヨ変わらねどヨ
変わるマタ配所の憂き思い チョイチョイ月見れば後に残せし妻や子の
面影そぞろにアラ偲ばれて ヨイショ
うたた断腸のヨ思いありヨ
男マタ不覚の一としずく チョイチョイ今から思えば、少々涙っぽくて、第三者にはピッタリしないかも知れないが、当時の境遇にあった者にあっては偽らず叫びであった。
お許しを得ないままの長文引用、申し訳なく思いますが、もう一つ、引用をさせてください。祖父が作ったという「インタニー道中」という歌です。皆で合唱したそうです。
夜が冷たいマッコイ館府
籠の鳥かよ囚われの身は
バッブワイヤに月を見る月は冴ゆれど心は曇る
ガード銃剣命をかけて
渡る流転の旅の空ハワイ楽園昔のことよ
父を奪われ夫と別れ
泣いて月見る妻や子は流転幾月いばらの道を
超えて行方の知れない旅も
末は愛するわが日本
キャンプ・マッコイで交換船での帰国応募がされたとのこと。祖父もこのとき帰国を希望していたはず。ただ、第一回の交換船での帰国はなりませんでした。
<キャンプ・フォーレスト>
ここでは祖父の名前は古屋さんの著書に出てこないので、別に収容されていたかもしれません。
ただ、戦時捕虜第一号の酒巻さんに触れられていますので、ちょっと引用させてください。当初、鬱状態にあった酒巻少尉も
このキャンプに来て私達と一緒になって、英語クラスで小学生のように勉強したり、朝夕の挨拶をしたりするうちに気持ちも緩んで、だんだんと活気ずいて来て、平常の状態に回復したようであった。本人も『近頃は寒暑を感ずるようになった』と云っていた。
このキャンプ以前でも著者を含め日系人は酒巻さんが収容されている場所の近くで大声で歌ったり、情勢を語ったりして陰に精神的な支えを行っていたようです。
<キャンプ・リビングストン>
キャンプ・リビングストンで古屋さんは別のバラックに居た祖父とよく語らっていたようです。収容生活に慣れた彼らは様々なクラブ活動を活発に行っていたようです。NHKでも放映された収容所での細かい手作業も精神を安定させることに多いに助けになった模様。扇子を作ったり、杖を作ったり。祖父は「追分学校」なるものに参加していたそうです。
「浅海君は追分を好きで、娑婆に居るころも、見田宙夢君や田巻青稲君などから習っていたので、先生がクセを直すとたちまち一人前の歌い手になった。」
以前、当山哲夫さんの回顧録「波乱重重八十年の回顧」(1971年刊)を紹介させて戴いたとき、祖父の追分『リビングストン』を引用させて戴きました。このときのものなんですね。
また、祖父は継続して放送部の任にあったそうです。著書「配所転々」では特に「ニュース放送盛んになる」としてそのことに触れています。
J2のハワイ部隊の方では浅海青波君とヒロの村上紅嵐君が担当してハワイからの情報を放送した。
本土組のほうの放送は漢文調の硬い文章をそのまま読み上げるので評判が悪かったのに対し
J2の方は、浅海、村上という新聞人揃いだから、種のない時は何処からさがし出しては、面白おかしく放送するので、Kエリアの戸栗という人などは、遠いところを毎日欠かさず聞きに来るのであった。
しかもかなり艶っぽいことも面白く放送したりしたもので
朗らかな笑いが止まらない有様であった。
ちょっと意外ですね。もし、祖父が主導したのだとしたらイメージが変わってきます。ふふふ。
ここでちょっとまた酒巻少尉のことを。先日のNHKのドラマでも描かれた騒動ですが、この時点で古屋さんとはアメリカの印象、日系人との考え方の違いを語り合うまでに心通わせるようになっていました。中宗中佐など十六名への移動命令が出たとき、動揺した下士官兵が中宗中佐を取り巻き・・・
反抗して死ねと怒号する始末で、中宗中佐もこの馬鹿らしい要求には弱って頭を悩ました。総員集合の結果、殺されてもここを動かないと決議した。その結果、軍隊約300名がエリア内へ乗り込み、一大事が起こらんとした。
酒巻少尉その他の将校が『手出しをするな、黙って言うとおりやれ』と大声で必死にどなった。結局、酒巻少尉以下三十六名は別のエリアへ連行して行かれ
予定どおり十六名が移動、
残りの三十六名は酒巻少尉が指揮官となった。はじめは一部の者が反抗的態度を示していたが、後には収まった。そして我々、インターニーと大球試合をする、というような穏やかな空気になって、酒巻少尉もホッとした様子であった。
また、試合の話があったときには捕虜側に恥さらしと反対の声もあったようですが
酒巻少尉が我々(浅海注:つまりインターニー側ですね)の心持ちや態度をねんごろに説明したので、ついに納得したとのことだったが(中略)、我々は捕虜という言葉を使わないように気をつけ、皇軍勇士と呼ぶので、彼らも感謝して愉快に運動するようであった。
ついでに書かせて戴きますが、ここの司令官は当初のダン中佐、後のウィーバー大佐とも大変紳士的な人物であったようです。
<クリスタル・シティ収容所>
「配所転々」の古屋さんは交換船による帰国を断念、おそらく祖父との行動はキャンプ・リビングストンまでとなります。祖父がそこから直接クリスタル・シティに行ったかは不勉強で確認していません。
各国の家族を集めたクリスタル・シティ収容所は前の書き込みのとおり、(少しばかり宣伝臭がしますが)かなり快適なものであったようです。他の収容所でもあった自治的な活動は家族が集まったことによりより今の「自治会」に近いものがあったと思われます。ここまでちょっと長すぎたこと、手元に材料が無いため、周防大島の移民資料館でコピーさせて戴いた画像の掲載で終わらせてください。
これは収蔵されていた「日本人家族名簿」のイメージです。わざわざ日本人とあるのはここには各国の人々が集められていたからでしょう。
ここに「第二回交換船帰国者」として祖父の名前が有りました。
予定どおり交換船にのり、シンガポールに寄港した際、家族とともに下船。同盟のシンガポール支局長として働くことになります。
その後、祖母達とは別に安全と言われていた「阿波丸」で末の息子、亮三とともに帰国を試みますが、アメリカ軍潜水艦の攻撃にあい沈没、今も海に眠っています。当初、阿波丸についても書くつもりでしたが、それはまた別の機会に致します。この書き込みにおいても無断の引用、画像掲載を行っていますが、関係者にお詫び致します。もし、差し障りが有る場合は削除、変更を致します。
※「阿波丸」については関連する著書、情報が多いのですが、誤りもまた多いようです。浅海は神戸の「戦没した船と海員の資料館」において、長年この事件について情報の収集、研究をなさっている大井田孝さんから直接お話を頂けて望外の喜びでした。当時、まだ作製中でいらした名簿の祖父と亮三の名前が記載されている箇所も見せて戴けました。ありがとうございました。
初めまして。私は最近、家系図や親戚のファミリーヒストリーを調べています。
私の家に残された本重商店社長、太平洋銀行頭取、布哇商工会議所会頭であった伯父の山本清三関係の写真に、伯父と日布時々編集長の淺海庄一さんの2人が、昭和15年8月16日に水交社にて晩餐歓迎会を催された時の記念写真がありました。
淺海庄一さんとはどのような人か検索してこのページに当たりました。
多分戦争18ヶ月前に帰朝した時の出来事ではないでしょうか。
伯父はハワイでの帝国海軍の練習艦隊の歓迎委員長で、庄一さんは練習艦隊や伯父の関係の報道をしていたので旧知の中で関係が深かったと思われます。
歓迎メンバーは海軍省副官、海軍省人事局一課長、人事局員、海軍部報道課長、海軍報道部員、軍務局院の少佐から大佐の方々8人です。
庄一さんがその後、逮捕され阿波丸撃沈で亡くなられたとは大変残念なことでした。