海潮音

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昨日、父の一周忌を迎えました。一年は本当に早いですね。

父は生前、あまり自分の経験を語りませんでしたが、母や家族の薦めもあってその簡単な回想記を残しています。日本語で書いたものと英文のものと2バージョン有りますが、比べるまでもなく英文バージョンの方が長く、情報量も多いのです。父の死後、いとこのブライアンに求められて行った英語でのインタビュービデオを観たのですが、これもまた想像以上に長時間に渡るものでした。ブライアンの聴き方も上手かったのですが、実際のところここまで長時間口を開く父を観るのはこのビデオが初めてだったかもしれません。

ハワイの新聞社「日布時事」編集者であった祖父は家庭では英語の使用を許さず、日本語のみを使っていたそうです。父は学校で友人達の会話は英語でした。同世代の二世と同様に日本語学校に通っていましたが、通常の勉学に加えての日本語学校通学は負担が大きかったというようなことを僕に語ったことがあります。

祖父、浅海庄一は青波という号を持ち、短歌に親しんでおりました。短歌ばかりではなく小説も書き、渡布以前から雑誌などに投稿を繰り返していたようです。17歳でハワイに渡ったのちは仕事などでなかなか時間を取れなかったようですが、文学と歌への情熱は持ち続けていました。(家庭でも日本語を使い続けたことはその気持ちの現れでしょう)

じつは残念ながら祖父の書いた文章は記事の一部しか知りませんでした。戦前、高松宮殿下が渡欧されたとき、その帰路の秩父丸に同乗、ご様子を取材するとともに日本各地を取材した記事しか手元に無かったのです。その記事から祖父の日本、当時の世界情勢に対する考えの一端は伺うことが出来ますが、文学者、歌人としての顔は知らぬままでした。

祖父が歌集「海潮音」を発刊、それを機に潮音詩社という短歌の会が発足したこと、その潮音詩社が今もなお活発な活動をしていることは知っていましたが、その内容は知らないままだったのです。布哇文庫というサイトを立ち上げた後にさまざまな方から記事や本の記載などを教えていただくことが多くなりました。たとえば田坂養民さん(ジャック・田坂さんですね)の「移民百話」などがそうです。

なかでもハワイ在住の鈴木啓さんには大変お世話になりました。歌集「海潮音」、雑誌「白光」の歌や小説の掲載箇所、その他関連記事の複写を頂いたのです。これにて初めて自分は祖父の作品の多くに触れることが出来ました。頂いた当時、十分にお礼を申し上げれれませんでした。本当に申し訳ありませんでした。

また、やはり潮音詩社と祖父についての記事を書いてくださった中野 次郎さんにもお話をうかがうことが出来ました。中野さんも短歌を詠まれるのですが、渡布当時、縁あって潮音詩社の会合に参加。当時は年を召された方が多かったそうなのですが、大変親しくされていたそうです。(中野さんはバンブーリッジ・プレスにて刊行された「Outcry from the Inferno: Atomic Bomb Tanka Anthology」という広島、長崎の原爆をテーマにした歌を翻訳、編纂されています。)

鈴木啓さんのご紹介で「ハワイ潮音詩社80周年記念式典」に、当時幹事を勤められていた亀田佳子さんにご招待を頂いていたのですが、当時から父の足腰が弱くなっており、残念ながら参加することが出来ませんでした。父も私もなにしろまったく歌心なく育ってしまい、お邪魔しても満足なお話が出来なかったとは思いますが、やはり心残りです。

その後も度々「潮音詩社」をキーワードにインターネットを散策、参加されている方のサイトを閲覧させて頂いたりしておりました。最近になって新しい発見を。google検索で「新小説総目次・執筆者索引」という本が引っかかるのです。「新小説」という雑誌、1927年まで続いた日本の文芸雑誌ですから、その後期に潮音詩社からの投稿が掲載されていたのでしょう。「文章世界」という雑誌の投稿者名索引を「浅海」で検索すると浅海青波、浅海吾市という名前がヒットします。浅海吾市は祖父の兄であり、ハワイ島で医師をしていました。父を始めとして、ハワイの歌人、文学愛好者が遠い祖国日本の雑誌に投稿を繰り返していたのですね。この「新小説文章世界」という雑誌はマイクロフィッシュで八木書店から復刻されていますので、図書館で閲覧可能かもしれません。

自分は文章が苦手でテヒヲハさえいい加減ですから、祖父の才能をまったく引き継いでいないのは確か。それでも、祖父の日本語へのこだわりを確かめるためにその作品をいつか探してみましょう。

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